知識・Tips 2025年01月31日

セメダイン創業者 今村善次郎の足跡をたどる旅

セメダイン創業者の今村善次郎の足跡をたどる旅に行きませんか?とセメダインの担当者からお声がけいただいたのは、まだ暑さの残る時期だった。
 
セメダインには子どもの頃からたいへんお世話になっていたので(私はかなりのプラモデル少年でした)、その創業者となれば神のような存在である。それはぜひ行きたい。しかし社員でもない私がいきなりそんな聖地ともいえる場所を訪れていいものだろうか。
 
躊躇しながらも好奇心は抑えられず、セメダイン社の社員3名とともに秋の富山を訪れることになった。

セメダイン創業者、今村善次郎

 セメダインの創業者、今村善次郎については、2024年11月から2年間、富山県教育記念館で、富山県が輩出した偉人としてその業績が展示されている。まずはこちらの展示で勉強させてもらうことにした。

 富山市にある富山県教育記念館にて。
今村善次郎は国産接着剤のパイオニアとして大きく展示されていました。
1890年(明治23年)、射水郡掛開発村(現・高岡市大坪町)で生まれた今村善次郎は、17歳の時に上京し、その後は職を転々としながら夜間学校で勉学に励んでいた。
 
東京では今の台東区に「今村商店」の看板を掲げ、自ら開発した靴磨きクリームやイギリス製の接着剤「メンダイン」の輸入販売などをしていたのだという。
 若き日の今村善次郎。この頃、奥さまのさきさんと出会って結婚されています。
 単身上京してきて商店を構えてしまうところからして、まずそのバイタリティには驚かされるが、今村善次郎のすごいところはまだまだここからだった。
 
当時イギリスからの輸入品に頼っていた接着剤を独自に研究し、1923年、初めての国産接着剤「セメダイン」の製造に成功してしまうのだ。
「セメダイン」はセメントと力の単位を表すダインを組み合わせた造語。イギリスの接着剤「メンダイン」を攻めだす、という意味も込められていたのだとか。
 今村善次郎はその後も研究を重ね、開発されたご存じ「セメダインC」は、折からの模型飛行機ブームに乗り、大きく売り上げを伸ばすことになる。
今や誰もが知っている「セメダインC」は、今村善次郎の開発魂によって世に送り出されたものだった。
今村善次郎が50歳の時に設立した「有限会社今村化学研究所」は、後に「セメダイン株式会社」となり、全国に販売網を広げていき今に至る。
 
国産接着剤の歴史は、まさに今村善次郎が作ったものだったのだ。
 これまでに企画展示されてきた富山出身の偉人たち。
その中に今村善次郎も名を連ねていました。
今村善次郎の偉業は改めて見ても輝かしいものなのだけれど、不思議なのは当時の日本で、どうやって独自にセメダインを開発できたのだろう、という点である。
     
今村善次郎の開発魂の原点を探るため、我々一行は富山県西部の都市、善次郎出生の地である新高岡駅に降り立った。
 
出迎えてくれたのは今村善次郎の曾姪孫(善次郎さんのお兄さんの今村勝太郎さんのひ孫)にあたる今村吉延さんである。
今村善次郎の曾姪孫にあたる今村吉延さん(左)とセメダイン社の木村修司さん(右)
セメダイン社の木村さんは社歴55年という大ベテランで、創業者の善次郎のことを直接に知る数少ない社員の一人である。今村吉延さんはじめ、善次郎の血筋である今村家とは今でも親交が深い。
 
今日は今村善次郎が生まれ育った富山県高岡市を、今村吉延さんが案内してくれるというのだ。こんなに贅沢なことはないだろう。
吉延さん、よろしくお願いします!
「天気もいいのでまずは駅から近いこちらをご案内しますね」と吉延さんの車でさっそく連れてきていただいたのは、気持ちのいい高岡おとぎの森公園だった。
 
紅葉が始まろうとしている秋晴れの日で、しっかりと整備された敷地に緑と赤のコントラストが美しい。
 
吉延さん「高岡市は今はドラえもんのふるさととしても有名になりましたね。」
 公園にはドラえもんの公園が再現されていた。高岡市は藤子・F・不二雄先生の生まれ育った町でもあるのだ。今村善次郎が開発したセメダインも、当時からすると未来の道具だったのかもしれない。
今村吉延さんは爽やかな笑顔が印象的な方だった。体形や歩き方からして、しっかりと体を鍛えられている印象がある。
高岡市は1609年、前田利長が高岡城に入り現在の町が開かれた。その後、1615年の一国一城令により高岡城が廃城となった後も、商工業の町として重要な役割を果たすことになる。
 
市街地には今でも、江戸の時代から続く屋敷が数多く残されているらしい。
「高岡には古い町並みが保存されているんです。」
高岡が当時から北陸地方の要所となっていたことを示す史跡は多い。それは商工業だけでなく、文化や信仰においてもである。
 
高岡大仏は奈良、鎌倉とならぶ三大大仏とも言われている。内部が回廊になっていて、建物内部では木製だった頃の大仏さまの頭部を拝むことができた。
吉延さんが「高岡の大仏さんは美形なんですよ」というのもわかるお顔立ち。
大仏の台座の内部は回廊になっていて、歩きながら迫力のある13点の仏画を観覧することができる。「子どもの頃はここの地獄絵が怖かったんですよね」と吉延さんは言っていた。
そんな今村吉延さんは、話を聞くとマラソンランナーなのだという。
 
やはり!見た目からもわかるように、かなりのレベルのランナーらしく、富山マラソンには毎年参加しているのだとか。
「富山マラソンはあの角を曲がるコースなんです。走ってる時は大仏さんも目に入らないですよ。」 私もランナーなので急に吉延さんに勝手な親近感を抱いてしまいました。
吉延さんに案内されて高岡の旧市街を歩く。
 
昔ながらの家並みの残る高岡の町は、歩くだけでタイムスリップしてきてしまったような錯覚を覚える。この町で生まれ育った今村善次郎も、同じ風景を見ていたのだろうか。
高岡の町は江戸と明治の大火で大きな被害を受けた。そのあとは耐火性の高い「蔵造り」へと町並みが変わっていったのだという。
ここ高岡御車山会館は、高岡の春祭で引かれる山車が展示されている。
高岡御車山祭は、高岡市で毎年5月1日に行われる例祭で、曳山と呼ばれる7基の山車が高岡の旧市街を巡行する。富山県内で最も古く、歴史のある山車祭りなのだとか。
曳山をはじめ、高岡では古くからこうした漆塗りや金細工、鋳物などの工芸が盛んに行われてきた。善次郎のものづくりの精神も、こうした土壌が育んだものなのかもしれない。
曳山の車輪。漆と繊細な金細工がすばらしい。
 善次郎の他にも富山県が輩出した偉人は多い。中でも発明家であり化学者であり起業家でもあった高峰譲吉博士は、開発型ベンチャーのさきがけとして世界的にも有名である。
 富山の偉人といえばなんといっても高峰譲吉ではないだろうか。
 他県出身者からすると高峰譲吉博士は「アドレナリンを発見した人」くらいの認識でしかなかったのだけれど、吉延さんに紹介してもらった資料館で高峰博士のさまざまな偉業に触れると、この高岡の地にはやはり発明家を育む土壌があるのでは、と思ってしまう。
 高峰譲吉博士の生家のあった場所。今は公園になっていました。
 高岡の町は過度に観光地化されるわけではなく、古くからここに暮らす人がこの土地を大切に思い、積極的に景観を保つ努力をしているような印象だった。暮らしと町並みがしっくり馴染んでいて、それ自体が観光地として魅力のある雰囲気を作り出しているように見える。
 古い町並みを残す金屋町は、2012年に鋳物師町として全国で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 軒下の風鈴がチリンチリンといい音で鳴っていた。夏を過ぎても風鈴の音が似合う町並みだと思う。
 金町にある鋳物資料館。資料館といっても新しく箱ものを建てるのではなく、古くからある建物を改築して利用している。
 鋳物資料館では、この地域で古くから盛んだった鋳造に関する道具や技術を知ることができる。
 
高岡の町は、高岡城がなくなったあとも藩主だった前田家の方針で、商工業の町として新たに発展を遂げる。このあたりにも今村善次郎や高峰譲吉らを輩出したルーツがあるように思う。
 とくに梵鐘(お寺などにある大きな鐘)の生産は日本一なのだとか。のちほど吉延さんの紹介で巨大な梵鐘も登場します。
市街地を離れ、今度は町を一望することのできる二上山までやってきた。
 山道を車でずいぶん上ってきたように思うが、吉延さんはここもトレーニングとして走って登っているのだとか。すごい!
 天気のいい日は目の前に立山の山並みが壁のようにそそり立つのが見えるという。この日はうっすらと稜線だけが浮かんでいた。
 昭和44年に建立された巨大な「平和の鐘」。重さ11トンの鐘は誰でもつくことができる。その音は遥か立山にまで届いてはね返ってきそうなほどの大音響。
 吉延さん「高岡は万葉の里と呼ばれていまして、そこらじゅうに万葉と名の付く観光スポットがあるんです。いま走っているこの道も『万葉ライン』といいます。」
 
「万葉」の由来は万葉集である。
 
越中国の国府があった高岡には大伴家持が赴任してきた歴史があり、多くの和歌がこの地で詠まれたらしい。言われてみればいたるところに歌碑がある。
 
今村善次郎の生まれるずっと前に活躍した偉人が、高岡ではこうして今でも愛されているのだ。今村善次郎の業績もこれから何百年も語り継がれていくのだろう。
 吉延さんはマニュアル(MT)の車ですいすいと峠道を運転していく。こんなところにも器用さとこだわりを感じてしまう。
 国宝に指定されている瑞龍寺は、高岡の町を開いた加賀前田家二代当主前田利長の菩提寺。
 大伽藍を囲む周囲約300mの回廊が壮観でした。
 夕暮れ時に訪れたのは富山湾に面する雨晴(あまはらし)海岸。あまはらし、という名前は源頼朝に追われた義経・弁慶が東北へ逃れる途中、岩陰で雨宿りをしたという伝説にちなむとか。
 吉延さんは海抜0mから3000mを超える立山まで走るマラニックにも出場しているらしい。聞けば聞くほどこの方、ただものではない。
 海越しに3000m級の山々が見られるのは世界的にもここ高岡の雨晴海岸とイタリアくらいなのだとか。この日はぼんやりと稜線が見えるだけだったが、本格的な冬になり空気が澄んでくると絶景が見られるのだという。
 善次郎が高岡に暮らしていた頃もおそらく同じ景色が見えていたはずである。
海は場所も時代もつなぐ。
海岸線すれすれを走る氷見線。

善次郎生誕の地を訪れる

翌日は吉延さんのご自宅を案内していただいた。
 
今村善次郎の生家は今は建て直されており、当時の姿を残すのは納屋の部分のみなのだという。

今村善次郎が住んでいた当時の面影を残す生家。(現在は建て替え済み)
吉延さん「このあたりの農家の家は吾妻建(あずまだ)ちといって、三角の尖った屋根が特徴的だったんです。」     
     
このあたりに黒々とした立派な瓦屋根の家が多いのは、当時の「東屋」の名残だろうか。今村善次郎も、子どもの頃はここに暮らしていたのだという。移設されたという納屋が当時の景色を残していた。
この納屋は当時のものを移設して今でも使われているらしい。
善次郎の兄である勝太郎さんの孫にあたる貢さんと、ひ孫の吉延さん。貢さんの奥さまの弘子さんに、善次郎についてのお話をうかがった。
ーー善次郎が暮らしていた頃の高岡というのはどんなところだったのでしょう。
 
弘子さん「当時は周りはみんな田んぼでしたね。だからずっと先まで見晴らしがよかったですよ。庄川の花火なんかも家から見られましたから。」
当時の家にあった蔵の梁から作られたという茶托。高岡はほとんど戦災に遭わなかったため、古くからの家屋が今でも残っているのだとか。
今村家には広くてお手入れの行き届いたお庭がある。
 
ーーこうやって広い庭を作るのは高岡の風習なのでしょうか。
 
弘子さん「どうですかね、そんなこともないかと思うんだけど。私が嫁に来た頃はもっと庭の木がすごくてね、柿の木なんて、今は2本だけですが当時は13本もあって、秋になると毎日朝から収穫がとにかく大変でしたよ。」
立派な石灯籠は先の地震で倒れはしたが、接着剤で直したらしい。
弘子さん「お庭の手入れはね、私とお父さんの二人でやってるから、すぐに草が生えてしまって。これから雪が降る前には雪つりもしますよ。」
 
この立派な庭に雪が積もった景色は格別だろう。
     
木村さん「善次郎さんの浦和の家もやっぱり庭がすばらしいんですよね。子どもの頃に見ていた高岡の庭を思って整備したのかもしれない。浦和のご自宅には富山の伝統工芸の金細工みたいなものも置いていましたし。」
善次郎の姪孫にあたる貢さん。その息子の吉延さんもだが、とても穏やかで優しい印象の方だった。
貢さん「善次郎さんが住んでいた当時は、このあたりは掛開発(かけかいほつ)村という名前でした。」
 
木村さん「善次郎さんは会社でもとにかく開発を優先!と言ってましたからね。生まれたところの地名にも開発が入ってたっていたと聞いて、なるほどなと思いましたよ。」
 
ーー開発という字が地名に入ってるというのは、農地を切り開く、という意味ですか。     
 
貢さん「そうでしょうね。このあたりは昔はずっと沼だったみたいでして、それを農地として開発していった、ということなんじゃないかと思います。」
 
木村さん「いわば開発魂の発祥ですよ。新製品の開発にこだわる、っていうのは善次郎さんの遺訓にもなっている精神でして。私は新人教育を毎年やっていますけど、今でも必ず社員に覚えておいてくださいって見せています。」
セメダイン社に今でも伝わる善次郎の言葉にも「新製品の開発は特にこれを積極的に行う事」とある。善次郎の大切にした開発の精神は、今でも受け継がれている。
ーー木村さんは会社でも善次郎を見てるんですよね。
 
木村さん「数年ですが重なっていますね。毎朝会社より先に工場に出勤してね、ゴミでも落ちてたりするとうるさかったっていいますよ。とにかく質素で倹約家な方だったんですけど、かわりに新開発にはばーんと予算つけたりして。でもいつもニコニコしてる方っていう印象でした。」
 
弘子さん「顔が丸いから丸い人っていう印象だったんじゃないですかね。それはうちのおじいちゃん(善次郎の甥)もそうで、とにかく優しくて、嫁に来ても嫌な思いをしたことが一度もないですもん。」
     
今村家について語る弘子さんの笑顔もまた柔らかく穏やかな印象である。これはこの土地特有のものなのか、それとも今村家の家柄なのか。
北陸地方の方言が持つやわらかいニュアンスも、今村家のみなさんの雰囲気と合っているなと思いました。
 ーー今村家のみなさんは、善次郎との思い出ってご記憶にあったりしますか?
 
貢さん「私の祖父にあたる善次郎さんの兄は若くして亡くなっているのでね、私にはほとんど記憶にないんですが、善次郎さんは東京へ出た後もちょくちょく顔を出してくれてましたよ。」
 「当時は長男は家を継いで、次男以下は外に出て自分の食い扶持を見つけなきゃいけなかったんです。」と貢さん。
弘子さん「善次郎さんは私も何度かお会いしたことがあるんですけどね、さっきも言った通りおだやかーな、まるーい印象の方でしたよ。海外に行ったとかいってはね、子どもたちを集めてチョコレートなんかを配ってくれるわけです。当時だからね、そりゃあ珍しくて、嬉しかったの覚えています。」
昭和44年の写真。手前の写真で帽子をかぶっているのが善次郎。赤ちゃんが吉延さん。
ーー善次郎には当時からセメダインの創業者としての威厳みたいなものがあったんでしょうか。
 
弘子さん「ぜんぜん。自分のことをたくさんしゃべるような人じゃなかったですよ。いつでもニコニコしててね、お酒が好きな方だったから、来るときにはいつもお酒をたくさん用意していました。その時だけは家でも、一級じゃだめだ特級酒を、なんて言ってましたけどね。」
今村家のお仏壇。高岡ならではの繊細な金属細工と漆塗りが美しい。
弘子さん「善次郎さんが亡くなった後も、うちが善次郎さんの血筋だなんて他言しなかったんですが、新聞に取り上げてもらってからぱーっと広まりましたね。」
 
ーー他言しなかったというのはどうしてでしょう。我々からすると善次郎は郷土の偉人で、親類としてもっと自慢してもいいのになと感じてしまうんですが。
 
弘子さん「当時からね、なんかすごい人が親戚にいるんだな、とは思ってたんですけどね、それは家の中だけの話で、外にでたらみんなには言わない。自慢することもなかったですね。」
 
ーーそれは高岡というか北陸の人の謙虚さというか性質なんですかね。
 
弘子さん「どうでしょう、今村の家の血なんじゃないですか。偉いのは善次郎さんであって私たちじゃないですからね。」
 
今村家のみなさんが本当に嬉しそうに善次郎の話をしてくれたのが印象的だった。あえて周囲に誇ることはしなくても、きっと善次郎のことは心の中では当時から自慢の親戚だったに違いない。 

今村善次郎を知る人に聞く

この日の夜は善次郎に詳しい高岡のみなさんに集まってもらった。

左から北日本新聞社OBの中島利明さん、今村吉延さん、セメダイン社の木村修司さん、富山県を愛してやまない郷土史研究人の木本尚志さん。
ーーこの集まりのきっかけを作ってくれたのが木本さんだとうかがいました。ありがとうございます。
 
木本さん「たまたま本で善次郎さんのことを知って、興味を持って調べてみたんです。そうしたらすごい人じゃないですか。私も高岡生まれなんですが、こんなすごい人がいたなんて知らなかったんです。それで興味を持って、セメダインさんに連絡をしていろいろと教えてもらったのが始まりです。」
 
善次郎の足跡をたどる高岡への旅は、実はここから始まる。
たまたま目にした本をきっかけに今村善次郎を知った木本さんがセメダイン社に問い合わせをしたことがきっかけとなり、新聞にまで掲載されることとなった。というわけで木本さんは善次郎を広く世に知らしめた立役者と言えるだろう。
木本さんからの問い合わせに回答したのがセメダイン社の木村さんだったのだ。
木本さんは善次郎について調べた成果を、大先輩である北日本新聞社の中島さんに共有する。これに興味を持った中島さんが北日本新聞のタウン紙で善次郎の記事を書いたのだった。
 
これをきっかけとして善次郎の業績がようやく高岡から全国にも知れわたることとなり、今に至るというわけだ。つまりここに集まってくれた人たちがいなかったら、善次郎はいまでも今村家の中でだけその偉業を伝えられるにとどまっていたかもしれないということである。
     
ーー今日は今村善次郎について、いま一番詳しいであろうメンバーに集まっていただきました。みなさんの調査の結果を踏まえまして、改めて、どうして善次郎はセメダインを開発することができたんだと思いますか?
木本さんからの調査報告に感銘を受け、北日本新聞のタウン紙で善次郎の記事を書いた中島さん。
中島さん「善次郎さんは高岡を出てから、長野、大阪と住まいを転々とするんですが、そのあと東京に出てきて、とにかく何か仕事をしないと食べて行けなかったわけですよ。最初はアルバイトしながら勉強していたみたいなんですが、あるときから露天商っていうんですかね、靴磨きとか金属磨きとか、インク消しなんかを売っていたこともあるらしいんです。」
中島さんの書いた郷土史(歴史)の本は書籍「たかおか歴史の旅(北日本新聞社)」にまとめられています。
木村さん「その時に同じように商売をしてたのが今のキングジムの創業者だと聞いています。近くにはシャープの創業者なんかもいた。そういった環境があってこそでしょうね。当時は国を挙げて、西洋をまねして追いつけ追い越せという気運もあったでしょうし。」     
 
当時、接着剤といえばイギリスの「メンダイン」等、海外からの輸入品が主流だった。これを元に独自に研究を進め、善次郎は国内初の接着剤「セメダイン」を開発するに至る。セメダインという名前はメンダインを攻め出す、という強い意思を持って名づけられたという説もあるらしい。     
 
ーー時代的に西洋に追いつけ追い越せ、という気運があったことはわかるんですが、善次郎、そもそも化学に関する知識はどこから得たんでしょう。     
 
木村さん「それがわからんのです。東京で学校は出たみたいなんですけどね、当時イギリスの接着剤だったメンダインを参考にして、どうにかこれを国産で作れないかと独自に研究していたみたいです。あと富山といえば薬売りですよね。薬剤、というところで、この土地となにかつながりがあったのかもしれない。というのは私の想像ですけどね。」
木村さんはセメダインでの社歴が55年。「創業者の今村善次郎より長いですよ」と言っていた。まさに今セメダインのことを最もよく知る人である。
中島さん「富山の土地柄っていうところも多分にしてあると思いますよ。正力松太郎、安田善次郎、浅野総一郎などなど、この土地が創業者を多く輩出しているのは、港町で文化交流が盛んだったという影響もあるかと思います。新しい感性を受容する土地だし、周りにそういう人たちがいると互いに刺激を受けますしね。」
富山には大企業の創業者を多く輩出する土壌があるのでは、と。
木村さん「それから奥さんのさきさんの存在というのも本当に大きかったのではと思います。彼女は服飾のプロ、デザイナーさんでして、当時そういった女性は珍しかったはずです。新しいものを敏感に取り入れてしかも理解のある、そんなさきさんといっしょになることで善次郎さんも奮起できたんじゃないかな。」
 
ーーなるほど。開発力もさることながら、広告とかマーケティングのセンスにおいても善次郎のアイデアはずば抜けていますよね。
昭和20年代に走っていたというセメダイン社の宣伝カー。屋根にセメダインのチューブを積んでいる。
中島さん「そこはやっぱり善次郎さん、次男坊でしょう。昔は長男は家を継ぐことで必死、次男坊以下は自分の食い扶持を見つけることで必死だった時代です。何か他と違うことをやらなきゃ食っていけない、っていうハングリー精神みたいなものがあったんじゃないかな。創意工夫で現状打破、みたいなね。」
「北陸は保守的な風土ではあるんですよ。だから芸術家というよりは堅実な実業家が生まれやすかったのかもしれないですね」というのは中島さんの持論ではあるが、なるほど説得力があります。
今村善次郎について、詳しい皆さんからの愛のある善次郎秘話を嬉しそうに聞く吉延さん。善次郎は随筆を書くほど渓流釣りが趣味だったと聞くが、吉延さんも渓流釣りをされるそうだ。こういう話を聞くと、やはり今村家の血を随所に感じるのが面白い。
木本さん「あとはやっぱり善次郎さんには人を惹き付ける力があったんじゃないかと思うんです。私も惹き付けられた者の一人なんですが。周りにいた力のある人たちを巻き込んで、いいものを作って世に出していこうとする、そのひたむきさにはとにかく魅力を感じるんですよね。」
個人的に善次郎に興味を持って、という理由でここまで調べ上げた木本さんのひたむきさもすごいですよ。
木村さん「大正デモクラシーなんて言われるように、今よりずっと自由度の高い時代だったとは思うんですが、そんな中でとにかく接着剤一筋、っていうのも筋が通ってましたね。」     
 
確かに、業務範囲をやみくもに広げることなく、生涯接着剤一筋を貫いたひたむきさも善次郎ならではなのかもしれない。
 
ーーこれから第二の善次郎を期待するにはどうしたらいいでしょうか。
 
中島さん「あまり真面目に締めつけるとよくないのかもしれないですね。いまはほら、なにかあったらどうするんだ、って風潮で、なにかと安全安全にシフトしがちでしょう。それじゃあやっぱり萎縮してしまいますから。」
 
木本さん「そういえば昔は富山の小学生はみんな立山登山をしてたんですが、事故があったらどうする、ってことで今は行かなくなりましたからね。」
高岡ではいたるところで立山の写真を見かけた。やはり立山は富山県のシンボルなのだろう。
吉延さん「私も小さい頃から『富山県民たるもの、立山に登らずに一人前といえるか』って言われてきました。きっと善次郎も登ったんでしょう。」
 
次の善次郎が生まれるためには土地に対する愛着を深め、時代を把握して、若くて自由な発想力を支えていかなければいけないのかもしれない。それは善次郎の次の世代を生きる我々に伝えられた使命である。

高岡で今村善次郎を感じる旅でした

高岡も東京も、今村善次郎がセメダインを開発した当時と比べると大きく様変わりしてしまったかもしれない。それでもその土地に根付く風土というか人の本質みたいなものは、いつまでも変わらずに受け継がれているように思う。
 
そういう意味で、今村善次郎の生まれ育った町を訪れ、山を見て水に触れ空気を味わうことで、今村善次郎の存在をぐっと近くに感じることができた旅でした。
 
ご協力いただいた皆さんに感謝します。



 安藤昌教(あんどうまさのり)
国立研究所での研究員を経て、カフェ店長、ダンサー、カメラマン、広告制作など。デイリーポータルZにて執筆中。25年度より高校物理科の教師に。猫好き。

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