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知識・Tips
2021年04月16日
幻のセメダインの宣伝カー、当時の姿を知る証人が見つかった!
幻のセメダインの宣伝カー、当時の姿を知る証人が見つかった!
2019年秋、かつてセメダインが走らせていた宣伝カー、通称「セメダイン号」がTwitter上で小さなムーブメントを巻き起こしました。
はじめまして。自動車雑誌『高速有鉛デラックス @FEN810kHz 』で着色写真の連載を担当している者です。本誌ライター @ChillReactor の監修により「セメダイン宣伝カー」を再現してみました。ベース車の考察は下記の通りです。 #ギジカラー
— 濱田 良章 (@HAMADAYOSHIAKI) October 4, 2019
プロの手で復元着色され
そして数々の人の手を経て……
多くの方が挑戦されている @cemedinecoltd さんのセメダイン宣伝カーの復刻ですが、モデルを @chiki_kawachan さんにお借りして、いろんな宣伝カーが走る渋谷の交差点を走らせてみました。カラーリングは、 @HAMADAYOSHIAKI さんがツイートされた @ChillReactor さんの監修をベースにしています pic.twitter.com/T6UVUqAbfy
— MaxonJapan (@maxonjapan) October 28, 2019
CGで渋谷の街を走る事態に!
さらにはレゴバージョンやアイメイクアート化、ペーパークラフト化などスピンアウト作品も誕生し、多くのクリエイターとのコラボレーションを実現しました。
昭和30年代、いまから60年以上前の車が現代に巻き起こしたムーブメント。その一部始終は2020年の2月にレポート記事にてご紹介したのですが、実はその後、この記事がさらなる展開を呼びました。
「当事者」からの連絡
というのも、記事を読んだ当時のセメダイン社員、実際にセメダイン号に乗り、セメダイン号の塗装デザインまで担当したという、いわば「当事者」より連絡があったのです。
伊部和徳さん
昭和9年生まれ。昭和32年から7年間、セメダイン在籍。広告活動ほか、セメダイン号の2代目塗装デザインを担当。宣伝カーに乗って、全国のPR活動に出向く。セメダイン退職後、デザイナーとして独立。大阪万博のサインデザイン等に関わる
伊部さんがある日、たまたま古巣であるセメダインのサイトを見てみたところ、自分が関わっていたセメダイン号の話題を発見。思わずセメダインの相談窓口にメールで連絡していただいたとのこと。まさかの展開にさっそくインタビューをおねがいし、セメダイン号の知られざる歴史をひも解いていくことにしました。
ーー伊部さんはどういう経緯でセメダイン号と関わられたのですか?
大学時代は美大で日本画を学んでいたのですが、ぜんぜん飯のタネにならないことに気づきまして(笑)
そんな折にセメダインの大阪支社でデザイナーを探しているという話を聞き、面接をして入社したんです。すぐにPRの仕事をすることになり、セメダイン号と出会いました。
ーー最初の仕事がセメダイン号だったのですね。
ええ。当時は単に「宣伝カー」と呼ばれていました。
入社してみたら、デザインどころか宣伝だとかPRだとかの仕事をする人って、私しかいないんですよ。それまで支店長だった原さん(後のセメダイン3代目社長、原正直)がそういった仕事の非常にうまい方で、東京からデザイナーを連れてきて一気に販路を広げたのですが、私が入社する直前にお二人とも東京本社へ戻ってしまって。
PR担当の後任をだれか用意しなければということで私があてがわれたんでしょうね。
ーー支店長の後任がいきなり新人ですか!
そうなんです。そうとも知らずに簡単に入ってしまった(笑)
ーーそのときすでにセメダイン号はあったのですか?
はい。私の入社前、昭和28年に発注されたもので、300万円かかったと聞いています。当時にしたらすごい金額ですよ。私の初任給が1万2千円でしたから。
木造の小さな建物で商品倉庫兼用でやっているような会社が、すごい立派な宣伝カーを会社の前にドカーンと置くわけです。それだけで「すごい会社だな!」って評判になるくらい。
ーー他の会社も宣伝カーは持っていましたか?
ありました。特に大阪は派手なものや新しいものが好きという土地柄もあって。サントリーとか、シオノギ製薬とか。当時、宣伝媒体といえば新聞がメインだったところにテレビが急成長してきたりして、企業の宣伝活動が大きく変化していった時期でした。宣伝カーも含め、いろんなやり方が模索されていたんです。
ーーセメダイン号の塗装の塗り替えをデザインされたと聞きました。
私がやったのは2回ですね。
その頃セメダインのロゴがただの太ゴシック体から現行のものに変わったので、車体にも入れました。
↑ 左端ギリギリのところに、ゴシック体の「セ」が映り込んでいるのがわかりますか?これがおそらく塗り替え前の写真
ーーその際、こだわったポイントなどありますか?
実はあまりこだわりませんでした(笑)
ロゴは本社の方で作られたので。車体ももともとのデザインが気に入っていて、あえて大きく変えないようにしていましたから。車体側面に描かれた、手でチューブを持った形が面白いんですね。ですから苦労はなかったです。
一石二鳥の宣伝カー
ーーセメダイン号はどうやって使われていましたか?
特に重宝されたのは、得意先の販売店(卸店)で大売り出しがあるとき。でかい車に商品をたくさん積んで、拡声器で「セメダインが応援に参りました!」って言うわけです。車体には派手な看板も付いていて。そりゃ目立つし、特に地方の販売店からは喜ばれますよね。
ーー宣伝しながら販売店の近所を回るのですか?
それもありますし、得意先の店員と小売店にも行きますね。ホーロー看板をたくさん積んで小売店に行って、店先の柱にバンバン打ち付けちゃうんです(笑)
もちろん勝手にではなくてサービスとしてやってたわけですけれども。
そうやって販売店を手伝って喜んでもらうのと一緒に、小売店にはセメダインの売り込みをするという。
ーー一石二鳥ですね。ところで当時、セメダイン自体の知名度はどうだったのですか?
よく知られていましたよ。戦前からある竹や紙を使ったゴム動力の模型飛行機のキットがありまして、もともとは子供向けの軍国教育として国が推進していたのが元ですが、私のいた昭和30年代当時は東京で小中学生の模型飛行機全国大会もやりました。
模型メーカーが専用のキットを売るわけですが、そこにセメダインは接着剤のセメダインCと、リューブリカントという潤滑剤を提供していました。そうしてみなさんこどものころから使い慣れていますから、セメダインは接着剤の代名詞のようになっていましたね。
「セメダインと味の素と仁丹は将来株」なんて広告代理店から言われていました。
ーーセメダイン号の話に戻りまして、大売り出しのとき以外に、街なかを宣伝して回るようなことは?
なんとなく街を流して走ることもありましたし、新しい団地ができたらそこに行ってサンプルを配ったりとか。
あとはイベントですね。花火大会でセメダインの仕掛け花火を出す代わりに、会場に宣伝カーを入れさせてもらって、ちっちゃいチューブの接着剤を配ったり。こどもたちとか喜んでもらっていきますから。
他には大阪の「十日戎(とおかえびす)」というお祭り。スポンサー企業が神社の本殿廻りを囲む社殿にブースを構えて吉兆という縁起物の笹飾りを配るのですが、それも私がデザインしました。「福がよくつくセメダイン」なんてコピーをつけて。
祭りの前には神社の総代がコンテストで選んだ福娘という若い女性たちを連れて、市役所やスポンサー企業なんかをあいさつ回りするわけですよ。そのときに宣伝カーに乗せてあげて玄関前まで。市内の目抜き通りにメーカーや銀行なんかありますから、あの車で行くと宣伝効果満点ですよ。戎神社の宣伝をやりながら、実はセメダインの宣伝もしているという。
ーーまた一石二鳥!
北は東京、南は博多まで
ーーセメダイン号で遠出することもありましたか?
ありました。この写真を見てください。
「ぶつだん みどりや」と書いてありますよね。調べてみるといまも福岡にあるんです。つまりこの写真はおそらく博多どんたくで、もう一枚のこちら
これがどんたく隊のメンバーを乗せてる写真ではないかと。
昭和28年に福岡支店ができたので、自慢の宣伝カーで大阪からはるばる乗って応援に行ったのではないかと思いますね。
残念ながら博多へは私は行きませんでしたが、私がした遠出といえば、先ほども触れた模型飛行機の大会で東京まで乗っていったことがあります。とちゅうで一泊して2日がかりで行きました。箱根の峠を越えるのが大変で(笑)
当時は国道1号線ですら舗装されてないところもあるわけですよ。民家の瓦屋根すれすれを90度曲がった直後に踏切まである、とかね。運転手は箱根の坂の途中で「エンジン焼けたらあかん、ちょっと一服しよう」なんて。
ーー乗り心地はいかがでした?
元がトラックですから、今のバスみたいに快適ではないですね。
運転席の横にエンジンがあって、そこに鉄板でふたをしてるんです。長距離走ってるとこれが熱くなってきて、ほとんど暖房器具ですよ。冬場はいいけど夏場は大変(笑)
エアコンなんか付いていません。正面が見える写真のセメダイン表示窓の両脇のルーバーは換気用の空気取り入れ口です。
セメダインは職業訓練学校だった
ーーセメダイン号はその後どうなったのですか?
当時は高度成長期ですから交通事情も変化が大きく、当初は路上で自由に拡声器を使ってもよかったものが、条例が変わって警察へ届け出が必要になったり。
それにくわえて車自体の老朽化もあって維持が難しくなり、昭和37年ごろには残念ながら廃車になりました。
ーー伊部さんが退職される少し前ですね。伊部さんがセメダインを退職されてからのお話も少しうかがってもいいですか?
退職後は自分でデザイン事務所を立ち上げました。在職中に楽しかった仕事として文具見本市でのブースのデザインなどありましたが、そういった立体デザインの仕事をもっとやりたいなと思いましてね。
独立した翌年に大阪万博の開催が決まり、数年後博覧会協会デザイン課の職員として私も参加しました。万博は自分にとってひとつの目標でしたから、もう他の仕事をぜんぶ断って(笑)スポンサーも「万博協会へ行くならしかたない」と言ってくれましたから。
万博ではファニチャー類(休憩テントやベンチ、ごみ箱等の設置物)のほか各種の標識や案内サインなどあり、私は主にサインを担当しました。
サインというのは取り付け場所の詳細がわからないと取り付けられないわけですが、建築や植栽工事など同時進行で造っていきますから、現場を見に行っても工事中なわけですよね。図面を頼りに発注書類を作っていきますが、お祭り広場など複雑で分からないので、担当課に行くと「設計変更したのでいま図面作ってるよ」なんて言われたりとか(笑)それが巨大な会場中、全部。とても大変な仕事でしたね。
その後は万博経験者として重宝されるようになり、つくば万博でソ連館を手がけたり、 国際花と緑の博覧会では協会直営館の花の展示館3館の展示ディレクターを務めました。
ーー大活躍ですね。そしてその原点にはセメダインがあったと。
そうです。学校出たてのわけのわからん奴が、「仕事っていうものはこうやってやるんだ」と覚えた7年間で。いま86歳ですからその中では短い時間ではありますけど、生涯の仕事の基礎になった重要な期間だったと思います。今から思うとセメダインは職業訓練学校のようなものでした。
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万博という大きな舞台で活躍された伊部さん。その出発点がセメダイン号だったのです。
ちなみに伊部さんの奥様は、当時のセメダイン号のドライバーの紹介で知り合った縁とのこと!
『こんなところにも「なんでもよくつく」が!』(セメダインTwitter担当・談)
かつては伊部さんのキャリアからご結婚まで、そして時を経て昨年のTwitter上のコラボに、伊部さんとセメダインの再会。時代を超えて、まさに「なんでもよくくっつけた」セメダイン号でした。(文・石川大樹)
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