知識・Tips 2021年04月26日

80年前のセメダインCとネットがつなげた多くの人の想い セメダインの歴史に迫る奇跡の大発見【後編】

2020年の夏から秋にかけて、ちょっとした奇跡がありました。その奇跡は、およそ80年前のものと思われるセメダインCが、石川県にある古民家で見つかるところから始まります。そこから3カ月ほどの間に、存在だけが知られ、現物も写真も残っていないとされていた製品が次々と発見されたのです。ものづくりへの情熱や、価値をわかる人にものを届けようとする想い、それらを繋ぐ優しさに包まれたネットの力。その中のどれか1つでも欠ければ、今回の奇跡は起きなかったかもしれません

セメダインの歴史の謎を解くカギになるかもしれない大発見の話の第3回。戦時中の物資不足の際に販売された瓶入りのセメダインB、Cが発見されます。

▼すべてはここから始まった!前編はこちらから▼img_oldC.jpgのサムネイル画像

▼相次ぐ発見…!中編はこちらから▼img_oldB2.jpgのサムネイル画像

戦時中の瓶入りセメダインが発見される

幻と言われたセメダインB、メンダインが発見されてから、さらに1か月ほど過ぎた11月の始め。ネットのニュースを見た方から、また新たな情報が寄せられます。戦時中に販売されていた瓶入りのセメダインB、Cの他、各種の資料を保管しているというのです。

戦時中に販売されていた瓶入りのセメダインB、C

情報を提供していただいたのは、独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所の川野邊さんと、一般財団法人日本航空協会の苅田さん。戦前から戦後にかけて、グライダーと模型飛行機の開発、普及に尽力された山崎好雄氏の遺品を、文化的資料として調査していた際に発見されました。

山崎好雄氏 (日本航空協会 提供)

山崎氏は1903年(明治36年)に東京で生まれ、1922年(大正11年)頃に東京帝国大学航空研究所に入所し、グライダーの設計製作に従事。山崎式第一型、伊藤式A一型など数々のグライダーの設計をおこないました。その後、1940年(昭和15年)に文部省の体育官補に任官。木製の双発哨戒機「大洋」の開発に携わります。

山崎氏が設計に携わった伊藤式C-6型飛行試験。(日本航空協会 提供)

当時は第二次世界大戦前。日本でも海外のシステムを取り入れ、学校で模型飛行機教育がおこなわれていました。苅田さんの説明によれば、その過程で山崎氏は、模型を作る材料の会社として、セメダイン社と取引、親交があったのではないかとのこと。

山崎氏から寄贈された資料内にあった教材として使用された模型飛行機の図面。(日本航空協会 提供)

山崎氏は戦後も文部省に戻り、1958年(昭和33年)に文部省を退官。その後は、模型飛行機の普及活動などに携わり、1981年(昭和56年)に亡くなられました。日本航空協会に遺品が寄贈されたのが2012年の頃。蔵の中に膨大な資料や模型の部品類などと共に保管されていたそうです。

模型飛行機教育に使われていたと思われるミニチューブのセメダイン。ラベルの上に飛行機のマークがある。

苅田「コレクターや仕事で携わっていた方は、とにかく凄い量を集めてしまうことがすくなくない。でも、家族は興味がないことも多くて、その方が亡くなって遺されると邪魔になってしまう。そんな遺品を一括して寄贈してもらうことがあります。山崎氏のお宅の蔵にも、タイムカプセルみたいに色々な物がぎっしり詰まっていました。」

ミニチューブの箱には「A號 B號 C號」の文字がある。同時期に3種類が販売されていたことが予想される。

苅田「日本航空協会では、2000年頃から航空機やそれにまつわる資料も、近代の産業遺産、文化財として、航空の歴史を伝えていくためには、ちゃんと残していくことが必要だと考え始めていました。そんな時に、東京文化財研究所から声をかけていただき、共同研究を進めています。その中で、山崎氏の資料を整理していて、グライダーの図面や飛行機の部品などに交じってセメダインの接着剤が出てきました。」

瓶のフタには「今村化学研究所」の文字が刻まれている。

瓶入りのセメダインBは21g入りで50銭。セメダインCが30g入りで50銭。マル公マークがあるので、当時政府が物価の統制のために指定した公定価格だと思われます。竹製の刷毛が付属していたようで、どちらの箱からも出てきました。残念ながらフタがしっかり貼り付いてしまっていて、瓶が割れる恐れもあるので開けることができません。中は既に乾いて塊になっていました。

少し使ったものかは不明だが、色からみて間違いなくセメダインCが固まったもの。

この瓶入りのセメダインの他、ミニチューブのセメダインや、中身を使い切った鉛のチューブ、他社製の接着剤の割れた容器に至るまで、ありとあらゆるものが、遺品の中には残されていました。

苅田「戦争中は物が無いというのもあって、捨てられなかったのではないでしょうか。使い終わった鉛のチューブは、模型飛行機のバランス用のウエイトとして使ったのかもしれません。資料はダンボールや木箱に詰められていて、ホコリをかぶって汚れているようなものもありましたが、どれも綺麗な状態で残されていました。几帳面な方だったと思います。」

セメダイン社から山崎氏に宛てた、全日本学童模型飛行機競技大会へのご案内の手紙も残されていた。

東京文化財研究所の川野邊さんはこんなことを言っていました。

川野邊「近代化遺産としての工業製品と従来の文化財としての違いは、複数存在するかどうかということです。従来の文化財は、唯一無二なのでその価値について疑問を呈する人はいませんが、近代化遺産に関してはそうではありません。例えば、新幹線の最初の車体である0系新幹線は、イギリスでは近代高速鉄道網の実現者として、当たり前のように文化財として大切にされています。0系新幹線が実証した高速鉄道網の価値について、議論の余地は無いと思います。しかし、我が国では、文化財として指定されていません。たくさん生産された工業製品を文化財として認めるためには、そのものの歴史的意義だけでなく、希少性が我が国では重視されるためです。そのような工業製品によって、我が国の近代化が推し進められてきたことは疑いの余地はありません。それが正当に評価され、次世代に引き継がれていくことを切望しています。」

発売当初のセメダインCと、現在のセメダインC。80年の時を経て2本が並ぶ。

工業製品というのは、常に使用され、新しいものが出れば、基本的に古いものは処分されます。まして、接着剤のような消耗品となると、使い切れば用が無いので廃棄。使い切らなくても、必要が無くなれば捨てられる運命にあります。それが偶然にも80年間残り発見される。そこからは、ネット力で次々と新たな発見に結びつきました。

今回の出来事は、ネットの発達した令和の時代だからこそ起きたといえます。ものも情報も、それを必要とする人に届くか、必要な人が探し出せる方法が無ければ、活用することは難しい。ネットのない時代ならば、古いセメダインが見つかった。それを周囲の人に見せたが、「へー、古そうだね」と言われて終わりだったかと思います。ともすると、負の側面が目につきがちなインターネットですが、善意の連鎖で思いもよらぬことが起こります。

そして、ものづくりに情熱を燃やし、ものを大切にしてきた人の気持ち。さらに価値が保存できる場所に届けようとする人の想いがつながることで、セメダインの戦前、戦後の時代の流れを感じられる、思わぬ史料が発掘されました。

なんでもよくつくセメダイン。80年経っても人の想いをつなげたということで、今回のレポートを終わります。(取材・文 馬場吉成)


ライター:馬場吉成

工業製造業系ライター。機械設計や特許関係の仕事を長らくやっていましたが、なぜか
今は工業や製造業関係の記事を専門とするライターに。企業紹介、製品紹介、技術解説
など、製造業企業向けのコンテンツを各種書いています。料理したり、走ったりして書
いた記事も多数あり、別人と思われることも。学生時代はプロボクサーもやっていまし
た。100kmぐらいなら自分の足で走ります。http://by-w.info/


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