2021年01月15日モノづくり

いつだって最先端!アナログから3Dプリンターへ、海洋堂の造形いまむかし ー前編ー

この10年、造形の業界では革命が起こりつつある。

立体物を手軽に出力できる3Dプリンターや画面上で立体を制作することのできるソフトが広まったことで、デジタル造形が波のように押し寄せてきている。実は、古来から造形に親しんできた人ほどこの変革はどう受け取っていいか困惑しているところもあり、また実際にパテや粘土を使って造形している職人である造形師たちもある種の葛藤を持ちながらデジタル造形へと取り組んでいる話を聞くことが多い。

じつはそういったアナログからデジタルへの取り組みが最も"等身大"で行なわれているメーカーが海洋堂だ。立体物を手にとったとき、どこかで必ず触れるメーカーであり、個性豊かで実力も折り紙つきの原型師集団を抱える、その道では知らぬ人のないこのスターメーカーこそ、先鋭的なメーカーのように明日すべてをいきなりデジタルにはできない、さりとて使わないのはもったいないという葛藤や心の変化を感じながらデジタル造形を採用していたのである。

いま我々がいかにしてデジタルを受容していくのかという話を含んだ、あらためて海洋堂のこと、過去からこれからのことを海洋堂専務、宮脇 修一氏(愛称:宮脇センム)に話を伺った。(文・けんたろう)

大阪府門真市にある海洋堂オフィス

巨大な恐竜がお出迎え

うどん屋かプラモ屋か、アイデアマンの木刀が拓いた道

左から西氏(企画課)、宮脇氏、村井氏(企画課)

僕らのはじめの商いというのが1964年にはじめたプラモ屋さんで、当時父がうどん屋をはじめようか、それとも修一坊ちゃんが模型が好きな子だから模型屋をやろうかって考えたんです。そこで木刀を吊るして、倒れたほうの商売にってことで模型屋を始めてくれたんですよ。それから'70年末ぐらいまでプラモデルっていうのはとにかく勢いがすごくて、学校があれば1軒はプラモ屋があったし、子どもたちの遊び場になっていた。

僕は模型大好き少年でいまでも大好きなんですが、父は好きでもなんでもないんですよ。ただアイデアマンで、店のなかに大きな10mぐらいのコースを作って戦車で遊ばせたんですね。夏はプールを作って船を浮かべたり[1]2年続けてタミヤの戦車を日本一売った店だったんです。1969年の4月4日にバスをチャーターして田宮模型(今のタミヤ)[2]の見学もやりました。

 

[1] 現在では水線下をカットした固定の艦船模型が主流だが、かつては航行する模型があまた存在した。マーガリンでシャフトをシーリングして、完成した立派な完成品を池でいざ出航……、したらすぐに沈没、なんていう話はあるあるネタである。プールなら安心、ということで近年まで船の科学館のプールで艦船模型走航会なども行なわれていた。

[2] 言わずとしれた模型メーカーの王様。航空機、戦車、艦船、自動車とオールラウンダーにプラモデルを手掛ける。どの時代、どのジャンルのキットでも、シンプルで作りやすいという哲学が貫かれており、組んだときのピッタリはまる感覚は心地の良い体験となる。現在はコロナ禍により見学は受け付けていないが、歴史館の大量の模型、そして模型化の資料に使った実車(とくにF1関係はマニアックな来歴をもつ車両も多い)、ショールームのモータースポーツ関係者のサインなど、昭和44年と変わらず見どころたっぷり。いつか静岡ホビーショーとともに再開、いや再会を楽しみに期待したい。

海洋堂の始まりをつくった”修一坊ちゃん”

また造形の黎明期よりもっと前の模型の黎明期に、プラモデルの青空模型教室もやっていて。買った模型を作ったり作り方を教えるプラモの塾ですよ。お寺を借りたり、みんなでいろいろなところに集まって。売るだけではなくていかに付加価値をつけるかっていうのを考えていたんです。

いまでこそ当たり前のようにニッパーとかがありますが、初期の模型用のニッパーや、注射器に接着剤を入れたオリジナルの道具を作ったりとか、ピンバイスとかを売ったり、プラモのプロとしての存在感を出したのが海洋堂だったんです。

それでも当時は「プラモデル作りなんて……!(渋い顔)」、と言われていた時代なんですね。まだ木をナイフで削り出すのがよしとされている時代で、プラスチックの模型を組み立てるのは誰でもできるやんと。商売としてはよかったけど、社会的に蔑まれて評価はなかったんですね。そういう中でうちの館長、お父ちゃんがそういう誰が作っても同じプラモに、作家性を取り入れようとした。帆船の完成品を作って10万円で売ったりとか。

たとえばプラモデルのキャンバス論ですよね。ゼロ戦は真っ赤に塗れとか、みんな塗り絵のようにした。組み立てるだけのパズルだったようなプラモを、工芸性であるとか作家性を1970年代から加えはじめた。今で言えば造形物に原型師名があるように、プラモに名前を入れようと。海洋堂の名刺の裏にARTPLAという文字があるんですけど、この模型の制作ポリシーも1970年ぐらいに父の館長がはじめたものです。

1970年代~80年代ごろには、海洋堂はホビー館っていう200坪ぐらいの倉庫を改造した巨大な模型屋さんをやったんですよ。いまでこそ立派な模型屋さんはたくさんありますけど、当時はちっぽけで貧乏くさいイメージだった。それを払拭したくて父は館長になって、究極の模型屋をやったはずなんだけどそれはうまくいかなかった。

それはもう1980年代のこどもさんというのはテレビゲームに全部持っていかれてしまって。模型にはあまり興味がなくなってしまった。[3]

[3] 筆者もまさしく「'80年代のこどもさん」で、見事にファミコンという新しい潮流に飲まれていた。クラスでプラモデルを作る人間は2人いればいいところだった。そのかわり模型の世界に入った人間は濃いゾーンが形成されており、あちらこちらのメーカー、模型雑誌の編集部で、'80年代のこどもさんが第一線で活躍しているところだ。

プロが声をかけた"怪獣"たちの集まり

子どもたちはそうやって模型から離れてしまったけど、1980年ぐらいにガンプラのブームがあって。僕らは広い場所があったんで、特撮、アニメ、漫画が好きなやつがたむろするようなところになった。僕自身がまあお兄ちゃん格としていて、カッコよく言えばトキワ荘やし、悪く言えば模型好きのたまり場になった。海洋堂は知名度があったので、全国からそういうモデラーの集まる巨大なサロンやったんですな。

そのうちに怪獣をレジンで作る歯科技工士の人が現れるわ、それに刺激を受けて紙粘土、ファンド(石膏粘土)でロボットを作るやつが出て、いろんな人間が集まることで化学変化が起こって、海洋堂からフィギュアが誕生した。同じ時期(82年)に、いまエヴァンゲリオンの版権管理をやっているグラウンドワークスや株式会社カラー、ガイナックスの大元だったゼネラルプロダクツ[4]SFショップとして大阪に誕生している。この大阪というユニークな土地を、僕らは同人誌的活動、立体物同人誌活動の拠点にして、そこからガレージキット[5]が生まれた。

[4] '80年代大阪で海洋堂と覇を競った強敵(とも)。ワンダーフェスティバルを'85年から主催し、'92年に海洋堂に移譲する。アニメーション制作部門がガイナックスになり、のちにゼネプロのメンバーも合流。その後はご存知『エヴァンゲリオン』シリーズを制作。ゼネプロの名は現在でもレジェンドとして語られる。

[5] ガレージキットはとても規模の小さい、原型を小ロットで複製したアイテムで、キャラクターものなどではシリコンゴムとレジンキャストを用いて複製することが多い。素人が造ったシリコンゴム型は、1万個を超えるプラスチックキットを作るメーカーの金型とは異なり、レジンキャストで30個も複製すれば型はどこかが壊れてしまう。そんな小ロットでも自分の作った原型を複製して売るのは、原作への愛であったり、それを求める同志を探すものであったり、自分の腕をぶつけるだけの何かがそこにあることが多い。……というのが理想で、現実のガレージキット生産者にはこのアイテムならいくつ売れそうという売れ線探しをするものや、あるいはそろばんを弾いて利益を求める冷静なメーカーとしての存在もたくさんある。海洋堂のデジタルガレージキットは、販売個数や原型の選び方に原初のガレージキットと通ずるものがある。

ウチに感謝しろーっ by宮脇センム

メーカーになろうとしていたというより、だんだん規模が大きくなってきて、特撮大会とかでものを売っていたら、円谷プロさんが「お前ら、これちゃんと版権取って商売せいや。」って言ってくれたから、「ええの!!?」って。

アマチュアのつもりやったのがプロから声をかけてもらって、それはどうもありがとうと。それまで個人でコツコツやっていたけど、商品としてはじめて出したガレージキットが、ウルトラ怪獣のゼットン、ギガス、あともう一個なんだっけ、ケロニア[6]

なんでそんなマイナーなものをというのがありますけど、当時はリアルなフィギュアを誰も求めていなかったんですよ。当時はタミヤが精巧な恐竜を出したら「なんでこんな天下のタミヤが子供の工作で作るようなものを」って言われていたし、怪獣とか特撮ヒーローものとかふつうにカタチとしてはあるんですけど、解像度が確かに低いんですよ。子供の目から見てもなんじゃこの子供だましはという不満がずっとあって。もう少し解像度をあげようよと。それで自分たちで「じゃあ」ってレジンキャストを使ってリアルなものを造った。その前にはバキューム[7]キットで、『ルパン三世カリオストロの城』のオートジャイロを作って。

ガレージキットっていうのも、ガレージでやった小さなライブハウスから、日本青年館へとお客さんの数も増えてドームに、次はメッセにいったガレージバンドみたいに、そうやって広がっていったわけです。だからあくまでインディーズからはじまった。ゼネラルプロダクツと海洋堂がワンダーフェスティバル[8]をはじめたイノベーター。あとはみんな海洋堂のアイテムを扱っていたような人が自分らでもやってみようっていうのばっかりですから。

そういうもので一番最初にレジンキャストのガレージキットを作ったのが海洋堂さんなんですよ。まあまずウチに感謝しろーっ。

[6] おなじみのゼットンはともかく、上半身に羊毛パーカーを着た男のようなギガス、葉を鱗のように全身にまとった眼光鋭いケロニアはかなりマニアックなラインナップ。作りたいもの、欲しい物を作る、いかにもガレージキットらしいラインナップ。唸らされる。

[7] プラ板を熱して原型に押し付けると、そのもの形状をある程度トレスすることができる。この技法をヒートプレスという。原型周囲から空気を吸い出すことでよりピッタリと形状をつくることができるのが発展型のバキュームフォームで、1枚の板に翼の表と裏、ボディなどをまとめて吸い付かせたものをバキュームキットという。板からパーツを切り出す精度や強度を確保する裏打ちなどの作業もあり上級者向き。

[8] 世界最大の造型の祭典。1985年に始まり、現在は夏と冬を中心に開催される。メーカーやアマチュアが結集する一大イベントとなっていて、アマチュアは1日版権というライセンスを得てアニメやマンガなどのフィギュアを展示、販売をする。プロからアマチュアまで、多数の参加者が自分の造型を世に問うて、買う側は造型と夢を共有する。メーカーは向こう半年の新製品展示やおのおのステージでのイベントを行う。

フィギュアや模型をはじめとする国内最大級の立体造形の祭典通称「ワンフェス

会期中の海洋堂ブースは来場者でごったがえす

ウルトラマンもカメラを止めるなも、シリコンも3Dも、やりたいことは同じ

レジンキャストキット(ガレージキット)を始めた1983年ごろも、東大阪にはシリコンと真空注型機でもって精密なレジンキャストの試作品を一個何万とか何十万とかで作る会社が何十件もいてはるわけなんですよ。だからシリコンゴムのなかにレジンキャストを注型するというのは当たり前にあった技術。彼らは真面目な日本の技術で、原寸通りにするためにゴムを温めて収縮を計算していた。

けれども僕らはもうガチャガチャガチャ……ジャバー[9](レジンをかき回す動きから流し込む動き)って感覚で作ってた。真空で流してないから、空気の入った、それこそキバがないとか気泡で欠けてるとか、今から見たらそれを商品として出すなよ、というようなクオリティの低いものだった。でもやったもん勝ちやんと。僕らはやっかみもあれば批評もあっても、やったれやって、ええもんがあったら欲しいやろ、と。あとは自分らで、アルミを削り出して貼ったりしてくださいと。とりあえずやってみて、ガレージキットというひとつの創作活動を通じて、アマチュアの造形活動が広がった

[9] ガレージキットは原型をシリコンゴムで転写して、原型を取り除いた部分にレジンキャストを流し込むことで複製する。けんたろうがガレージキットをつくっていたときも、今の若い人も、レジンキャストを混ぜてシリコンゴム型に手流しするのは同じ。ノウハウや素材の向上でキバがかけたりなんてことも減ったが、先輩に言われたのは「自分が作れると言えるクオリティにしなさい。」今も昔も、作る方も買う方も酔狂な、自分と同じレベルか上の先達なのだ。

海洋堂に”デジタル”をもたらした3Dプリンター「Form 2」

だから今回のデジタル(海洋堂のデジタルガレージキット[10]も、強引にやらなければ新たな未来は来ないと。聞けば聞くほど真面目に取り組んでいるんですよ。レジンが経年劣化でどうなるかとか、積層痕がある試作品のようなものを売るのもなあ、とか懸念はある。でも僕らはダメなニュータイプなんで、ガッチガチのデジタル人間が「まだまだこんな解像度で商品をだすのは……」って言うところを、これで十分でしょっていうのがあってですね。

また値段ひとつとっても、これだけ出力に時間がかかります、で樹脂代がこれぐらいって、普通に考えたら原価とかありますけど、「ちょっとだけ利益が出ればええやんと。これはいけるやん、これはできるやん、売ろうや」と。そうやって最初にできたのが3Dプリンター「Form 2」[11]でつくった『カメラを止めるな!』のシリーズ。

最初に商品としてライセンスを取ったデジタル造形物だけど、映画を見てあまりにも面白かったから、ぼくもファン活動としての海洋堂がなにか関わりたい、この人らには評価されたい、素晴らしい映画を作る人らに同じような土俵に上がりたいと思って挑戦した。

2年前から、3Dプリンターを使いながら色々試してるけど、102030個でいいんだわ、ってやってく内に、まあ池に石を投げるように、あっちからこっちからなにか反響があるんじゃないかと思ってる。ガレージキットのときと同じように、海洋堂がやったからデジタルがいけると、ええんちゃうんと思ってくれるといいな。ワンフェスのアマチュアディーラーも、「海洋堂がやっているなら大丈夫や」って。

[10] 3DプリンターのForm 2から出力されたものを、そのまま販売する形式が海洋堂のDGK。従来のレジンキャストとも異なる素材で、接着剤や工作も新たなノウハウが必要になるため、一般的には出力品をあらためて従来のレジンキャストに置き換えて販売することのほうが多い(売り手にも好まれる)。だが3Dプリンター出力品ならではとして、プラモデルのランナーのように、出力品に必ずついてくるサポート材をデザインに取り込んでして1つの立体として見られるようにしている。強引さのなかに遊び心を込めたのが海洋堂のDGKなのだ。

[11] Formlabs製の3Dプリンター。本体の価格やライフサイクルコストが無理をすれば一般のモデラーでも使えるレベルまで降りてきたことや、ピッチが細かく出力品の表面がなめらかになったことなどがあり、モデラー向け3Dプリンターのスタンダード製品となった。海洋堂はこのForm 2を並べて工場のようにガレージキットを生産したり、試作品を出力したりと活用している。

Form 2は高速・精細な造形が特長。

海洋堂のデジタルガレージキットはForm 2で作られている

海洋堂の”デジタル”とは

いつの時代も「造形」の世界を切り拓き、先頭を駆け抜けてきた海洋堂。

デジタルというビッグウェーブをどうとらえ、どう舵取りをしていくのか。

後編に続く!


ライター:けんたろう

模型雑誌を自由に飛び回るプロモデラー。新キットの作例や、途中写真を用いた組み立てのHowto記事、工具やそれを用いた技法の解説からインタビューまで、その内容は多岐に渡る。最近はnippper.comでもその知見を活かして牛丼の玉ねぎ的な存在の記事を書いている。

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