ものづくり 2022年10月24日

縄文人のものづくりってすごい!世界遺産・三内丸山遺跡に残る日本人の手仕事の原点(前編)

みなさん、教科書などで縄文土器や土偶を一度は見たことがあるでしょう。それらは「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に登録され注目を集めている縄文時代の遺物(昔の人が残したもの)です。

遺跡や遺物からは様々なことがわかり、そこには現代の私たちが学ぶべきこともあります。ただ、遺物は地面の下からバラバラの状態で見つかることがほとんどです。そんなバラバラの破片を接合し、保存・展示している人たちのお陰で私たちは縄文時代のことを理解できるのです。

今回は、日本人のものづくりの源流とも言える縄文の人たちの暮らしを探りに青森県の三内丸山遺跡を訪れ、遺跡の発掘や文化財の保護を行う、保存活用課副課長の茅野嘉雄さんに話を聞きました。

茅野嘉雄さん

縄文時代ってどんな時代?

三内丸山遺跡の話に入る前に縄文時代について簡単に説明します。縄文時代は約1万5000年前から2400年前まで1万年以上続き、人々は北海道から沖縄まで各地に定住して集落を作り、狩猟採集中心の生活を送っていました。

縄文時代という名称は、1877年に大森貝塚を発掘したエドワード・モースが縄目模様の土器を縄文(縄紋)土器と名付けたことに由来します。縄文土器のすべてに縄目模様が施されているわけではありませんが、縄目模様がついた土器を作り狩猟採集生活を行っていた時代を縄文時代と呼ぶようになったのです。

狩猟採集生活というと、原始的で不安定なイメージがありますが、縄文時代の人々は定住生活を営み、自然と上手に付き合うことで食料に困ることはあまりなく、争いもない平和で穏やかな暮らしをしていたということが、ここ数十年の調査研究で明らかになってきました。

さんまるミュージアムで出迎えてくれる縄文人の少年と縄文犬(縄文人は犬も飼っていました)

そして、その調査・研究に大きく寄与した遺跡の一つが三内丸山遺跡です。

この遺跡の調査で、縄文人は今の私たちに通じる技術や知恵を持っていたことがわかりました。もちろん三内丸山遺跡の発見以前に他の遺跡からわかったこともありますが、この遺跡の調査でそれが整理され、縄文時代のイメージを変えるきっかけになりました。(茅野さん)

初めて大規模な発掘調査が行われたのはちょうど30年前の1992年、野球場を建設する予定で調査を行ったところ、大規模な遺跡だとわかり、野球場は別の場所に建設することにして、遺跡公園として整備することになりました。

三内丸山遺跡ってどんな遺跡?

三内丸山遺跡は、昨年世界遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産の一つでもあります。三内丸山遺跡に人々が暮らしていたのは約5900年前~4200年前とされていて、長期間にわたって定住生活が営まれていました。そして最盛期には300人から500人ほどの人が暮らしていて、縄文時代としては非常に大きな集落でした。なぜそんなに大きな集落になったのでしょうか。

三内丸山遺跡のジオラマ(一部)

縄文時代の遺跡は台地上にあることが多いですが、この遺跡も同様です。さらに、青森平野に面した台地の中では平地部分が広く、近くに川も流れていて海も近いという立地条件で、食料調達に便利な場所でした。海に近いというのは重要な要素で、縄文時代の人たちは津軽海峡を渡って北海道と行き来していたことがわかっています。また、各地からもたらされた品々が数多く見つかり、活発な交流が行われたことが分かっています。その交流の拠点になり得たことが大きかったのではないでしょうか。(茅野さん)

この頃の一般的な集落の人口は数人から数十人程度と考えられており、三内丸山は破格の大きさでした。北海道など遠くの集落と交流が盛んであったことから、三内丸山はこの地域の中心的な集落として沢山の人が暮らすようになった一つの要因と考えられます。

たくさんの建物が立ち並ぶ巨大遺跡

現在、遺跡は整備されていて、多くの復元建物が立ち並んでいます。竪穴住居、掘立柱建物、大型の竪穴建物、大型掘立柱建物などです。この内、竪穴住居は人々が暮らした家で、6畳~10畳くらいの空間に一家族が暮らしていたと考えられています。掘立柱建物は倉庫等に、大型竪穴建物は集会場や作業場として使われていたようです。大型掘立柱建物は15メートルもの高さがある、全国的にも他に類を見ないほどの大きな建物と想定され、三内丸山の縄文人たちの建築技術の高さがうかがえます。しかし、本当にこのような建物をつくることができたのでしょうか。

竪穴式住居群

大型掘立柱建物と大型竪穴建物

遺跡には基本的に柱を据えた穴しか残っていないので、建物の高さや形などは想像です。ただ、民俗例や他の遺跡での部材の出土例などを参照することで、このような形だっただろうと想定しています。木を削って二つの材をピタリと合わさるようにしたり、ほぞを作って木を組んだりしていただろうと。そういう技術がないと、これだけの大きさの建物をつくることはできないですから。(茅野さん)

大型竪穴建物の内部

大型掘立柱建物に関しては、直径1メートル前後のクリを使った柱の根元の部分も出土していて、その柱の太さや土にかかった木材の荷重から、高さが推測されています。他に高い建物などない縄文時代に、こんなにも大きな建物があったら目立ったでしょうね。

大型掘立柱建物を見上げる

目を引くのは建物ですが、「建物がないようにみえるところ」も実は重要な遺構です。盛土と呼ばれる、土器や石器などの生活用品や焼けた土などを捨てた場所が発掘時の状態で保存・公開されています。ここからは大量の土器が出土した状況を見て取ることができます。

他に道路の跡やそれに沿ってつくられたお墓の跡、木の実などを保存した貯蔵穴なども見つかっています。これらも、縄文時代のことを知るには重要な遺構です。さらに、北の谷という小さな谷があります。ここが実は非常に重要で、ここから土器や石器以外にも木や骨などでつくったたくさんの遺物が発見され、色々なことがわかったのだといえます。

北盛土の一部が発掘時の状態で保存されている

遺物から読み取れること

通常、縄文時代の地層からは有機質の遺物はほとんど出てきません。土壌が酸性のため有機物が長い時間の中で分解されてしまうのです。しかし、水分の多い湿地では、有機物が分解されにくいので残りやすく、木製品など珍しい遺物が出土することがあります。三内丸山遺跡の北の谷からも木製の櫛や獣骨製の針などのほか、木の皮を組んで作った「縄文ポシェット」なども出土しています。

この北の谷や盛土から出た遺物からは縄文人の生活のことが色々とわかります。三内丸山の縄文人はどんな暮らしをしていたのでしょうか。

豊かだった食生活

湿地である北の谷に物を捨ててくれたことで、当時食べていた植物の種だとか、獣とか魚の骨だとかがいっぱい見つかっているので、当時の食生活や周辺環境がある程度わかります。それから木製品なども出ていて当時の人々の生活道具をうかがうことができます。(茅野さん)

縄文人はどんなものを食べていたのか気になりますね。食生活を知る上では土器も大きなヒントを与えてくれるといいます。

三内丸山で出土した土器を見ると、上の方が黒くて下が赤いものが多くあります。これは土器を地面に置き、火を焚いて中のものを煮込むなどしたあとです。つまり縄文人は土器を鍋として使っていたわけです。何を煮たか確実に分かる証拠はありませんが、残ったおこげなどを分析すると、木の実や植物性のものを煮ていたと推定できるものがあります。そのことと動物や魚の骨が出土したことを合わせると、肉や魚に根菜類やきのこ、山菜を合わせてごった煮にしていたのではないかと推測できます。土器によって縄文人の食生活はずいぶんと豊かになっていたはずです。(茅野さん)

煮炊きに使われた土器

生活に欠かせない手仕事

三内丸山遺跡の展示施設「さんまるミュージアム」には、たくさんの道具が展示されています。調理や食事に使う土器やナイフ状の石器のほか、狩りに用いる矢じりや石槍、漁に用いる釣り針や重り、木を切るための石斧、木の実を粉にする石皿やすり石、服や漁網を縫う針などです。どれもが非常に精巧にできていて、現代でも使えそうなものばかり。これらの道具を使って縄文人は様々な物を作りました。例えば衣服はどのように作ったのでしょうか。

矢じり

衣服は、植物の皮などから採取した繊維を糸状にしてまずアンギンと呼ばれる布を作ります。三内丸山遺跡ではアンギンの小さな断片が出土しています。それを針と糸で縫い合わせて衣服の形にします。ここで重要なのが針で、針がないとうまく衣服は作れません。針は動物の骨を使うことが多くて、よく使われるのがイノシシの肋骨です。実際に針を作る体験をやったことがあるんですが、砥石で磨いていくとちゃんとした針ができます。縄文人はよく考えたなと思います。(茅野さん)

三内丸山遺跡の湿地からは漆製品も出土しています。縄文時代から漆製品があったというと驚かれるかもしれませんが、広く漆は用いられていました。三内丸山の縄文人たちは集落の初期から漆の木を管理し漆を利用していたといいます。

赤漆が塗られた漆塗り製品

漆を使った製品は、飾り用の竪櫛や木製のお椀、土器などいろいろ出土しています。漆の木は遺跡の周りに生えていますし、樹液を採って調整する工程を集落の中でやっていただろう痕跡も出ています。漆の木を管理して取って利用する技術はすでに完成されていたと考えていいでしょう。(茅野さん)

漆は塗るだけでなく、接着剤としても使われていた可能性があります。矢じりを矢柄に固定するのに天然のアスファルトが用いられていますが、中には漆を使用していたものもあったかもしれません。自然の中のあらゆるものを生活に利用していた縄文人の知恵には驚かされますね。

(後編)に続きます。

 


ライター:石村研二 2000年頃からライターとして活動。最初は映画関連の記事を多く書いていましたが、greenz.jpなどで社会問題についての記事を書くようになり、その後は情報系、まちネタなど暮らしと社会の間の様々なトピックについてウェブ媒体で記事を書いています。2017年くらいから縄文にハマり、全国の博物館や考古館をめぐる日々を送っています。

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