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建築用
2026年09月04日
都市の「際」にひしめく緑の姿(村田あやこ:路上園芸鑑賞家、ライター)
路上園芸鑑賞家、ライター。「街の一角ではみだす誰かの園芸や植物=路上園芸」から、街と暮らしを読み解く。街歩きをテーマにしたコラムやインタビュー記事などを執筆。デザイナーの藤田泰実とともにお散歩ユニット「SABOTENS」としても活動し、組み合わせると路上園芸の風景がつくれる「家ンゲイはんこ」を制作。著書に『たのしい路上園芸観察』(グラフィック社、2020)、『はみだす緑 黄昏の路上園芸』(デザイン+イラスト=藤田泰実、雷鳥社、2022)、『緑をみる人』(雷鳥社、2025)など。『散歩の達人』(交通新聞社)などで連載中。「ボタニカルを愛でたい」(フジテレビ)に出演中。現在、横浜国立大学大学院環境情報学府博士課程後期に在籍し、植物生態学を研究中。
Instagram|https://www.instagram.com/botaworks/
意図的な緑と、意図せぬ緑
庭も大きなベランダもない集合住宅に住んでいる。家の中にはやんちゃな猫が2匹いるので、ろくに鉢植えも置けない。そのため、日々の自然体験はもっぱら外に求めることになる。
どんな市街地であっても、必ずといっていいほど何らかの植物がはみ出している。試しに自宅から最寄り駅までの道のりを思い出してみる。道を挟んで向かい側には、コンクリートの擁壁。その地際を、近所に住むじいさんが勝手に庭の一部にして、サボテンやアガパンサスの鉢植え、メダカの水槽などを並べている。草むしりはほとんどしていないようで、鉢植えの足元に目を移すと、アスファルトのひび割れた部分にカタバミやツメクサなどが旺盛に生えている。すぐそばのグレーチング蓋を覗き込んでみると、金属製の蓋の下でホウライシダが繁茂。さらに進むと、民家の古い擁壁にはツタバウンランが絡みついている。その先にある空き地では、オオアレチノギクが群生。左側には人気の感じられない民家が佇み、玄関先に放置された鉢植えからコエビソウが奔放に踊り、その周りにはヒメツルソバやエノコログサが陣地を広げている。小道を抜けた先の車通りでは、街路樹のユリノキの根元で、アカメガシワが静かに育っている。
このように、ひとくちに「植物」といっても、街を見渡してみると、計画的に植えたものや、個人が私的に育てているもの、どこからともなく勝手に居着いたものなど、そこに生えた経緯はさまざまだ。意図的なものと意図しなかったものがごちゃごちゃと混在しながら、「都市の緑」の景観は生み出されている。
どんな市街地であっても、必ずといっていいほど何らかの植物がはみ出している。試しに自宅から最寄り駅までの道のりを思い出してみる。道を挟んで向かい側には、コンクリートの擁壁。その地際を、近所に住むじいさんが勝手に庭の一部にして、サボテンやアガパンサスの鉢植え、メダカの水槽などを並べている。草むしりはほとんどしていないようで、鉢植えの足元に目を移すと、アスファルトのひび割れた部分にカタバミやツメクサなどが旺盛に生えている。すぐそばのグレーチング蓋を覗き込んでみると、金属製の蓋の下でホウライシダが繁茂。さらに進むと、民家の古い擁壁にはツタバウンランが絡みついている。その先にある空き地では、オオアレチノギクが群生。左側には人気の感じられない民家が佇み、玄関先に放置された鉢植えからコエビソウが奔放に踊り、その周りにはヒメツルソバやエノコログサが陣地を広げている。小道を抜けた先の車通りでは、街路樹のユリノキの根元で、アカメガシワが静かに育っている。
このように、ひとくちに「植物」といっても、街を見渡してみると、計画的に植えたものや、個人が私的に育てているもの、どこからともなく勝手に居着いたものなど、そこに生えた経緯はさまざまだ。意図的なものと意図しなかったものがごちゃごちゃと混在しながら、「都市の緑」の景観は生み出されている。
植物は境界を超える
誰かが都市空間の一角を使って営む園芸や、隙間で自然と育まれてしまった植物の姿を「路上園芸」と称し、ライフワークとして鑑賞を続けている。たくさんの人が住む都市は、ものがひしめき、所有や公私がせめぎ合う。その境界に存在するのが、路上園芸だ。戸外の室外機の上に鉢植えが並び、即席の小さな庭になる。整然と並ぶペットボトルや、道に倒れないよう結ばれた紐。鉢に添えられたコビトや犬などのオーナメント。ひとつの鉢には、そこで暮らす人の手仕事だけでなく、性格や趣味嗜好までにじみ出ている。鉢植えの緑は、時に目隠し、無断駐車や不法投棄の防止といった役割も担う。
路上の鉢植えは、公共スペースに半分開かれている。道行く人たちは、個人宅の鉢植えから季節ごとの変化を感じ取る。ひとつの鉢を囲んでご近所さんとの井戸端会議に花が咲く。植物を上手に育てる「グリーンフィンガー」の持ち主のもとには、里子のように鉢植えが託される。街路樹の根元や地先など、公共空間の一部が誰かの園芸スペースになっていることもある。
路上の鉢植えは、公共スペースに半分開かれている。道行く人たちは、個人宅の鉢植えから季節ごとの変化を感じ取る。ひとつの鉢を囲んでご近所さんとの井戸端会議に花が咲く。植物を上手に育てる「グリーンフィンガー」の持ち主のもとには、里子のように鉢植えが託される。街路樹の根元や地先など、公共空間の一部が誰かの園芸スペースになっていることもある。
室外機の上に並ぶ鉢植え。自転車のかごの中にも
写真はすべて筆者提供
さらに植物は、鉢のサイズなんて関係なく成長していく。東京の谷中(台東区)では、地元のお店の方が鉢植えで育て始めたヒマラヤスギが巨木となり、いまでは地域の名物として愛されている。蒲田(東京都大田区)でも、近隣の方が数十年前に植えたというジャカランダが大きく育ち、イチョウ並木に混ざって存在感を放っていた(現在は西蒲田公園に移植)。開花時期になると写真を撮りに来る人も多かったようで、SNS上にはたくさんの投稿が残っている。路上ライブで密かに研鑽を積んでいたミュージシャンがメジャーデビューした瞬間を見守っているようで、思わずエールを送りたくなる。
無数の生息地が織りなす都市
街を歩きながら、目についた植物をとにかくすべて写真に撮ってみる。というのを、最近いくつかの地域で試してみた。例えば、タワーマンションが立ち並ぶ武蔵小杉。マンションの植栽帯には、ツツジやシマトネリコが等間隔に、まるで工業製品のように植えられている。そのすぐそばには、地域にタワマンが立ち並ぶ前からあったとおぼしき町工場。古いコンクリートの壁の根元で、シダ植物やカタバミなどが顔を出している。未舗装の砂利には、セイタカアワダチソウやヒメツルソバが濃く繁茂している。
都市の多様な生息地。そこに生きる多様な植物たち。その姿を見守っていると、変化の多い都市空間では、「強いもの」が残るのではなく、「合う場所」に出会えたものが生き延びられるという当たり前の事実を目の当たりにする。
「際」に立ち上がるもの
都市のインフォーマルな緑である、路上園芸。その姿を探そうとすると、視線はおのずと「際」に向かう。建物と道の間。地面がひび割れた隙間。ブロックとブロックの境目。インフォーマルな緑は、「際」でその存在感が増す。
人為と自然との境界が揺らぐ、都市という空間。アスファルトやコンクリートが流し込まれて新しい建物が建つと、いったんは人間側の秩序が上回る。しかし人の目が届かず撹乱の少ない「際」では、自然側の秩序が濃くなる。道のはじっこに泥や落ち葉が堆積し、草が生える。路地に並ぶ鉢植えから、植物が静かにはみだす。
人為と自然との境界が揺らぐ、都市という空間。アスファルトやコンクリートが流し込まれて新しい建物が建つと、いったんは人間側の秩序が上回る。しかし人の目が届かず撹乱の少ない「際」では、自然側の秩序が濃くなる。道のはじっこに泥や落ち葉が堆積し、草が生える。路地に並ぶ鉢植えから、植物が静かにはみだす。
公と私、計画と偶然、人の営みと植物の営み。異なるルールが重なり合う「際」だからこそ、多様な生命が入り込む余地が生まれる。
都市の「際」を見つめることは、世界を白黒ではなく、その間に広がる豊かなグラデーションが紡ぐものとして捉え直すことなのかもしれない。
都市の「際」を見つめることは、世界を白黒ではなく、その間に広がる豊かなグラデーションが紡ぐものとして捉え直すことなのかもしれない。
注
★1──Ingo Kowarik, “Novel Urban Ecosystems, Biodiversity, and Conservation,” Environmental Pollution, Volume 159, Issues 8-9, Elsevier, 2011. ^
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