建築用 2026年01月09日

階段のある地形と街並み──都市の際(キワ)に階段を見つける楽しさ : 松本泰生(都市研究者、早稲田大学オープンカレッジ講師)

松本泰生(まつもと・やすお)
1966年静岡県生まれ。都市研究者。早稲田大学オープンカレッジ講師。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学博士課程修了。1990年代から東京都心部の斜面地の景観に関するフィールドワークを行ない、その一環で東京都心部の階段を訪ね歩く。
著書に『東京の階段──都市の「異空間」階段の楽しみ方』(日本文芸社、2007)、『凹凸を楽しむ 東京坂道図鑑』(洋泉社、2017)など。

東京山の手の寺院群と階段

1990年代から東京都心部の階段を見て歩いてきた。当初は趣味的な活動だったが『東京の階段』(日本文芸社、2007)という本を出した結果、メディアの取材を受けたりするようにもなった。取材ではしばしば、なぜ巡ろうとしたのか、調べようとしたのかと尋ねられるのだが、じつはそのきっかけは明確ではなく、なんとなく始めた、というのが本当のところだ。
 
階段の写真を撮りはじめたのは、大学院で都市空間の調査をするようになってから。学部は建築学科で4年次は都市計画系研究室を選んだ。このときは都内にある寺町(寺院集積地区)の調査をテーマとして授けられ、先輩と一緒に23区の寺院集積地区を巡り歩いた。
 
東京の寺院群は下町では平地に展開しているが、山の手では高台や斜面地に立地している。寺から寺へ、集積地から集積地へと歩くと、あちこちで坂や階段に出会う。最初のうちは街の特色を表わすもののひとつとして階段の写真も撮っていたが、そのうちほかの階段も見てみたくなり、住宅地図で階段を探して訪ね歩くようになった。
 
当初は江戸期から市街化していた東京の中心部、山手線の内側を主な対象にしていたが、その後、カルチャースクールなどで階段を案内するようにもなったため、対象は23区内の山の手エリアに拡大していった。通り抜けられる階段は山手線内では650カ所程度だが、23区の山の手エリアになると3,500カ所ほどあり、いまだにすべてを巡ることはできていない。

東京山の手と静岡市の地形の違い

ところで、私は東京出身ではなく、静岡県静岡市で生まれ育った。静岡の街は安倍川下流の比較的平坦な場所に街が展開している。周囲には急斜面の山があり、山の上は狭く住宅地にはならない。階段は街の周囲の山裾や山腹に立地した、寺や神社に上る参道などにあることがほとんどで、街なかにはほぼない。
 
一方、東京山の手の場合、階段を上りきると高台上の街に至ることが多い。あとあと知ったのだが、これは東京山の手の街が武蔵野台地を中小河川が浸食した地域に広がっているためなのだ。高台と谷地からなる地域が市街化しているので坂や階段が多い。また、階段を高台側、低地側のどちらに抜けても街が続いている。平坦な静岡の街で育った私には、街なかに階段があり、階段の上にも下にも市街が広がる東京の街が新鮮に思われた。
 
考えてみれば、静岡では階段は市街地とその周辺の山との境、際(キワ)に位置している。賑やかな空間とそうでない空間との境でそれを明確にしている装置ともいえよう。一方、東京の山の手では、階段は低地側の街と高台上の街の境にあるもので、こちらは同じ市街地の中で高台エリアと低地エリアを分けるものになっている。

「きざはし」としての階段の役割

寺社に限って言えば、階段は世俗的な空間と聖域を切り分ける結界の役割を果たす装置であり、一方で、世俗的な空間から聖域へ橋渡しをする架け橋「きざはし」の役割を果たしてもいる。低地から高台へ、階段を上ることで徐々に心が浄化され、神聖な空間へ立ち入る準備がなされていく。階段は世俗的な空間のキワの一点で神聖な空間に接続し、一方で結界として社寺空間の神聖性を維持している。

千代田区永田町2丁目 日枝神社 稲荷参道
以下すべて筆者撮影

港区愛宕の愛宕神社は標高約26mの小さな丘の上にあるが、この丘は武蔵野台地の東端部にあたり、階段下は新橋や海のほうまで平坦な場所になっている。社殿はその平坦地から急な石段を上った先に控えている。現在は自動車が通れる坂があるし、エレベーターでも山上まで上れるが、やはりそこは江戸時代からある「男坂」(または「女坂」)で上ってみたい。20mほどの高低差でしかないが、男坂の86段の急な石段を上りきるとやはりちょっとした疲労感と達成感が得られ、少し徳を積んだような手応えもある。それは聖域へアプローチする際の儀式、手順を踏んだことにより得られる感覚だろう。周辺には超高層ビルが建ち並ぶが、山上の一角だけはいつも静謐な空間が保たれている。

港区愛宕1丁目 愛宕山

港区愛宕1丁目 愛宕神社 [左]男坂 [右]女坂

高台側と低地側の街を分ける装置

山の手の街なかにある階段は、それとはまた異なる性格をもっている。高台と低地はやはり往来が不便だ。したがってコミュニティは高台側と低地側に分かれがちである。江戸時代はしばしば、高台上が武家地、低地の側が町人地などで、明治以降もそれらの住み分けは続いていた。高台側は日当たりも良く、地盤も良く、洪水にも遭いにくい。低地側はその反対であることが多く、地価もそれを反映していて住民のライフスタイルもおのずと異なり、建物や街並みの様子も異なってくる。
 
「山の手」「下町」は、もともと高台側エリアを山の手、一方の高台下を下町という、地形的な特色に基づく言い方だが、それぞれに特徴的な街並みが定着したことで、山の手といえば閑静な御屋敷街のイメージになるし、下町といえば商店街や路地、やや高密度な市街地が想像される。
 
江戸期には高台と低地のあいだの急斜面は、建築には適さず宅地化されなかったので、両者のあいだは離れていたが、近代以降、土木技術も進んだことで斜面にも建物が建てられるようになり、高台と低地の街は近接するようになった。現在は建物群が連続して建ち並び、一見するとなにも境がないように思える。しかしそのなかにあって、階段や擁壁はいまでも高台側と低地の側を切り分ける要素、装置となっている。
 
文京区本郷の「炭団坂」は江戸時代は急な坂だったそうだが、現在は階段に整備されている。階段上の町は閑静な御屋敷町で、最近まで古い屋敷が点在していた。一方、階段下は菊坂そばの谷地で、近くには貧しかった樋口一葉が借家住まいをしていたという路地も残り、やや高密度に建物が立て込んだ街になっている。異なる生活感の場所が隣りあってはいるが、それらは混在化せず隣接したまま推移しており、炭団坂はその2つの地区を繋ぎつつ一方で地区を分けるサインにもなっている。

文京区本郷4丁目 炭団坂

切り分けつつ繋ぐ

東京山の手で武蔵野台地の中を川が浸食して谷ができた場所では高低差はさほど大きくない。谷底と高台上の高低差は数mから10mほどなので、ビルやマンションが増えた近年は階段は街のなかに埋もれていて、そこから広い眺望が得られることは稀だ。

港区青山4丁目の階段

しかし武蔵野台地の端、北側の荒川や西南側の多摩川に面した場所にある階段では、驚くほどの眺望が得られることがある。板橋区赤塚4丁目の階段上からは荒川の向こうにさいたま市のビル群や北関東の山々が見えるし、大田区の多摩川台公園内の階段からは多摩川対岸の武蔵小杉のマンション群や関東山地の山々も見える。階段や坂からのこれらの眺望は、遠くに見える街と現在地の位置関係や距離感を明確化するもので、遠く離れた街を身近なものに感じさせて引き寄せる効果があるだろう。

板橋区赤塚4丁目の階段

板橋区赤塚4丁目の階段から荒川、さいたま市方面

大田区多摩川台公園内の階段から多摩川、武蔵小杉方面

都内には2、3段しかないごく小さな階段も多数ある。坂道にすればいいのにと思ったりもするが、階段にしておけば歩行者は通れるが車は通らないので、周辺に住む人はそのままにしておきたいようだ。ここでも階段がもつ「切り分けつつ繋ぐ」という特徴がある意味生かされている。
新宿区百人町の小階段

ここまで見てきたように、階段というものは異なる高さの場所を繋ぐものであると同時に、その存在によって2つのエリアを切り離すものにもなっている。東京の街は建物が延々と建ち並んでいるが、そのようななかにある階段を見つけると、それがなにを繋ぎ、なにを切り分けているのかを見極める楽しさがある。そして橋やトンネルと同様、階段を上り下りして異なる空間へ抜けていくおもしろさがあると言えよう。

関連記事

PAGE TOP

コピーしました