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建築用
2025年01月15日
「接着」と「離接」(日埜直彦:建築家)

日埜直彦(ひの・なおひこ)
1971年生。建築家。日埜建築設計事務所主宰。芝浦工業大学非常勤講師。作品=《ギャラリー小柳ビューイングルーム》(2003)、《F.I.L.》(2005〜)、《ヨコハマトリエンナーレ会場構成》(2011、2014)、《Arata Isozaki: In Formation展会場構成》(2023)ほか。主な書籍=『白熱講義──これからの日本に都市計画は必要ですか』(共著、学芸出版社、2014)、『手法論の射程──形式の自動生成(磯崎新建築論集第3巻)』(編集、岩波書店、2013)、『磯崎新インタヴューズ』(LIXIL出版、2014)、『日本近現代建築の歴史──明治維新から現代まで』(講談社、2021)ほか。「Struggling Cities: From Japanese Urban Projects in the 1960s」展(2017〜)企画監修ほか。
接着という言葉は一般に、別々にある物体を、接合して一体のものにすることを指している。同じものを複数接着することもあれば、違うものを接着することもあるだろうが、ともかくそれらを物理的にくっつけて離れないようにすることだ。その時に個人的に気になるのは、接合することよりはむしろ、一体のものにする、ということのほうだ。
AとBを持ってきて接着するとCができる。CができるとAとBは意識されなくなる。竹ひごと紙で模型飛行機をつくれば、そこにあるのは模型飛行機であり、竹ひごも紙も背景に退く。そうして考えてみれば、建築の設計なんてものはつまるところいろんなものを取り合わせて組み立てるものにほかならず、そのCをつくるための技芸といっても過言ではないかもしれない。
接着に対して、離接という言葉がある。あまり馴染みない言葉かもしれない。主に哲学や論理学の分野でdisjunctionを翻訳するときに、日本語にはない言葉だから無理やり造語された翻訳語と思われる。ややぎこちない響きなのはそのためだろう。ともあれ離接について接着と対比的に言うならば、AとBがあり、しかしそれが一体にはならず、AとBのままそれを2つながら対象として見ている、という事態を指している。
接着を素直に英語で言うならadhesionあたりになるだろうがこれはdisjunctionとはまったく関係なく、逆にdisjunctionの対義語はjunctionだろうがjunction=連結は接着とはずいぶんニュアンスが違う。しかしまぁ、日本語の「接着」と「離接」の字面は、どうしたって対として意識せざるをえない。
一体にする接着と、一体にはしないが隣り合わせる離接。AとBをなじみよく消し去りCをなす接着と、AとBの異質さを際立たせながらただ並び立たせる離接。ここでちょっと頭を捻って書いてみたいのはこの2つについてだ。日常語としての接着からかなり飛躍した話になるが、少しお付き合いいただきたい。
調和的古典とせめぎ合う近代
接着というのは古典的な美学に馴染む。完全なる全体を現前させるためには見事に部分が一体化せねばならない。不調和なく緊密に組み立てられ、部分は全体に従い、その全体はただのっぺりとした茫洋さではなく適度に分節される。そうして円満に一体のものとなった全体がかたちづくられる。美学が対象とするさまざまなジャンル、詩・音楽・絵画・彫刻そして建築に至るまで、この原則は一貫している。
ざっくりとそのように捉えられる古典的美学の基調は、レッシング『ラオコオン』★1から始まるより深い美学的分析においても維持される。AとB、あるいはより多くの部分が統合されて、Cが現前する。そこに古典的な均衡とドラマツルギーが作用し、そうして結局のところある種のイリュージョンが生じる。古典的芸術とはだいたいにおいてそういうものだ。
ざっくりとそのように捉えられる古典的美学の基調は、レッシング『ラオコオン』★1から始まるより深い美学的分析においても維持される。AとB、あるいはより多くの部分が統合されて、Cが現前する。そこに古典的な均衡とドラマツルギーが作用し、そうして結局のところある種のイリュージョンが生じる。古典的芸術とはだいたいにおいてそういうものだ。

ラオコオン像(バチカン美術館[紀元前制作、1506年発掘])
Wikipedia(CC 4.0)
これに対して、離接は近代以降に現れるある種の美学的傾向を導いた。ロートレアモンの「解剖台の上での、ミシンと雨傘の偶発的な出会い」★2は19世紀後半に遡るが、それが世に広まったのは20世紀に入ってシュルレアリズムによって再発見されてからだった。エイゼンシュタインのモンタージュもまたほぼ同時期に、文学のロシア・フォルマリズムにおいて議論された異化の効果に影響を受けて始まったといわれるが、その技法は映画というジャンルに普及した基礎的技法となった。
映画はショットとショットを繋いでいくが、ストーリーの流れとは異質なショットをそこに挟み込むことで、特別な効果を生む。ストライキで弾圧される労働者群像のショットのなかに牛の屠殺のシーンを挟むことで、強烈な象徴的な効果を生む(『ストライキ』1925)というような例で、なにをここで言っているか想像はつくだろう。そんなふうに調停されないままに異質なものが並べられ、しかしその異質な並びこそが飼い慣らされた予定調和を超えた効果を生む。
そうして結局、詩に限らず文学一般において意外な比喩による離接的技法を用いるのはごく普通のことになり、音楽はルーツのさまざまな音楽的断片を取り込んで新しい表現領域を旺盛に開拓した。絵画が写実を離れ広い意味におけるデフォルメによりその表現を拡張したのもそれと軌を一にしている。ごく新しいがきわめて広範に用いられる技法として、離接的技法は近代以降の芸術に共有されることになった。
映画はショットとショットを繋いでいくが、ストーリーの流れとは異質なショットをそこに挟み込むことで、特別な効果を生む。ストライキで弾圧される労働者群像のショットのなかに牛の屠殺のシーンを挟むことで、強烈な象徴的な効果を生む(『ストライキ』1925)というような例で、なにをここで言っているか想像はつくだろう。そんなふうに調停されないままに異質なものが並べられ、しかしその異質な並びこそが飼い慣らされた予定調和を超えた効果を生む。
そうして結局、詩に限らず文学一般において意外な比喩による離接的技法を用いるのはごく普通のことになり、音楽はルーツのさまざまな音楽的断片を取り込んで新しい表現領域を旺盛に開拓した。絵画が写実を離れ広い意味におけるデフォルメによりその表現を拡張したのもそれと軌を一にしている。ごく新しいがきわめて広範に用いられる技法として、離接的技法は近代以降の芸術に共有されることになった。

引用出典=https://youtu.be/hG_yM7We0C8?si=rT6QgSUx4dwWsn96&t=5198
建築における離接
違うものが並んでいる、というのはいわばそこに空間を生じさせるということでもある。近くともへだたりがあるから、離れているから、離接だ。一体になったものは接着され、へだたりはない。もちろん古典的な芸術もその内部には空間がある。しかしその内部は閉じている。その内部が開いており、そこになにかとんでもないものが呼び込まれ、外に向けて流れ出す、そういうへだたりの空間を残すところに離接に独特な効果が表れる。なにが呼び込まれるか、可能性は開かれており、そこに身を投げるようなところが離接的技法にはある。定石化すれば技法は古典的技法とほとんど同じようになるだろう。だが離接は順列組み合わせ的であり、その可能性は事実上無限にありえる。
建築のモダニズムは、近代に発展したものでありながら、じつのところとても古典的な美学に従っていた。レイナー・バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』(1960/翻訳=石原達二+増成隆士訳、鹿島出版会、1976)が批判したように、モダニズムの建築家たちは古典的なものを批判し、それを乗り越えることを謳いながら、古典的な美学を裏口から招き寄せその建築を整える支えとしていた。そうでもしなければ建築の姿は不安定で落ち着きを得ることがなかったから、そうしてようやく安心を得たのだ。モダニズムがスタイル化したのはその結果とも言える。
しかし例外はあり、そのひとつがロシア構成主義★3の末期にOSA(Organization of Contemporary Architects)グループの建築家が試みていたソーシャル・コンデンサー、つまり異質な機能の離接的な配置によるアフォーダンスの効果だ。人間の振る舞いを異質な空間の構成によって励起すること、その発想は共同住宅コムナルカ★4に象徴される人間そのものの改良を目論む過激でファナティックな性格のものでもあった。ソーシャル・コンデンサーがエイゼンシュタインのモンタージュとほぼ同時期なのは偶然ではなく、ロシア・フォルマリズム★5の理論を源流として、当時のソビエトの政治状況に圧迫されるなかで止むに止まれず生まれた2つの流れであるからだろう。
だが映画におけるエイゼンシュタインのモンタージュとは違って、建築におけるソーシャル・コンデンサーはその後に広まりを見せなかった。少なくとも意識的な意味ではその技法は一旦途切れ、それに再び光が当たったのは1990年代のことだった。レム・コールハースがロシア構成主義のそうした事例を参照し、その危なっかしい側面をやや都合よく脱色しつつ、建築におけるプログラムの組み替えに着眼する現代的な空間操作の技法を展開した。スタッキングとかフォールディングとか、その後のラディカルな形態操作がそこから生まれてきたことは言うまでもない。
だが映画におけるエイゼンシュタインのモンタージュとは違って、建築におけるソーシャル・コンデンサーはその後に広まりを見せなかった。少なくとも意識的な意味ではその技法は一旦途切れ、それに再び光が当たったのは1990年代のことだった。レム・コールハースがロシア構成主義のそうした事例を参照し、その危なっかしい側面をやや都合よく脱色しつつ、建築におけるプログラムの組み替えに着眼する現代的な空間操作の技法を展開した。スタッキングとかフォールディングとか、その後のラディカルな形態操作がそこから生まれてきたことは言うまでもない。
もうひとつの例外としてシュルレアリズムのほうに近い文脈を探せば、ル・コルビュジエの初期作品に見える、ドミノ・システムに挿入されたやや唐突にも見える曲面が思い当たる。形式的には整然とした柱によってリズムをつけられた平面のなかに、それを横断するように曲面が据えられ、その対比が空間を活気づける。この技法がオスカー・ニーマイヤーのように放縦的になるともうその効果は見えなくなるが、例えばニューヨーク・ファイブ★6が受け継いだものはこの線上にあると言っていいだろう。ただしそれはせいぜい品の良い意匠の範疇に収まっていたし、それ以上の明確な発展を見せることもなかったと言わざるをえない。
しかし彼らのバックボーンでもあった建築史家、建築家のコーリン・ロウが『コラージュ・シティ』(コーリン・ロウ+フレッド・コッター、渡辺真理訳、鹿島出版会、2009/原著=1978)で考えていたヴィジョンを、そこから発展して行き着いたものとして見るなら、かなり水準の違う可能性がそこから開かれたと見ることもできる。ロウは、現実の都市において、とりわけさまざまな時代に成立した建築が思い思いに建ち並ぶ都市において、その集合そのものに離接があることを見ていた。都市そのものに離接が見出されたのだ。一個の建築が壮大なものであれささやかなものであれ、ある全体であろうとしているとして、しかし一個の建築はそれだけで完結せず、都市のなかの離接的関係のなかでこそ、それとして現前している。その範例としてロウは《ヴィラ・アドリアーナ》(133)を挙げ、例えばヴェルサイユ宮殿のような全体調和的な古典性では生み出しえない複雑さを、人間はたしかに生み出しうることに注意を促した。ある意味で群造形はそこに接近していたかもしれないが、そこにはたくらみが欠けていた。もっと野心的になることもできるのだ。

ローマ帝国盛期の皇帝ハドリアヌスの離宮《ヴィラ・アドリアーナ》。ローマ帝国各地の風景を模した修景がコラージュされている。ユネスコ世界遺産。

紀元300年頃のカンプス・マルティウス(模型)。コーリン・ロウは都市の離接的様相の典型としてローマを見ていた。
Wikipedia(Public domain)
世界の離接的現実においてつくること
そこまで考えれば、もう行き着くところまで行ってしまう。そもそも世界は諸々の事物が離接的に併存している拡がりにほかならない。建築はそういう離接的諸関係のなかに島のようにある。ロウが考えていたのは基本的に人工物だが、そうとは限らない。山があり、生き物がいて、人間もそこにいて、建築がある。これらの一切が離接である。そこには予定調和は成り立たない。相容れないものが併存し、たまたま偶然に、あるいはあえて意識されて、ただただ即物的にそこにある。世界の事物はいわば互いに接着されてはいないということだ。離接的な関係は無関係とは違う。互いに異質であるからこそ、ただの隣接から激しいせめぎ合いまでの幅広いグラデーションを持つ交渉が至るところに生じる。
ロウが人工物に視野を絞っていたのはある程度までは古典的美学の伝統ゆえのことだったろうが、しかしそれだけでもないはずだ。つまり、ほとんどあらゆるものが調停されない一種のカオスであるならば、そこにどういうものを人間はつくりえるのか、それこそが人間が問い返さねばならないことだからだ。なにをどう組み合わせるのか。それは離接の問題であるよりはやはり接着の問題ということになる。
注
★1──ドイツの詩人、思想家ゴットホルト・エフライム・レッシングがギリシャ美術の空間性と時間性を論じた(『ラオコオン』1766/翻訳=『ラオコオン──絵画と文学との限界について』[斎藤栄治訳、岩波書店、1970])。
★2──ロートレアモン『マルドロールの歌』(1868/翻訳=『マルドロールの歌』栗田勇訳、現代思潮社、1974)
★3──20世紀初頭のロシアのデザイン運動・建築運動。建築のモダニズムの形成に強い影響があった。
★4──家族単位の居住を排し共同生活の徹底を試みた。
★5──20世紀初頭のロシアの文芸運動・文学批評の理論。言語学をベースとする理論を構築した。
★6──1970年代から80年代にかけてアメリカ東海岸で活躍した建築家のグループ。ピーター・アイゼンマン、マイケル・グレイブス、リチャード・マイヤー、ジョン・ヘイダック、チャールズ・グワスミーの5人。
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