建築用 2024年10月11日

知ることで「見えないものが見える」東京(岡部敬史:著述家、編集者)

筆者撮影

岡部敬史(おかべ・たかし)
1972年京都市生まれ。著述家、編集者。早稲田大学第一文学部を卒業後、出版社勤務を経て、著述・編集活動へ。
主な著書に『くらべる東西』『見つける東京』『目でみる方言』(いずれも写真家・山出高士氏との共著、東京書籍より刊行)などがある。最新作は『キッズペディア 身近で発見! 激レア図鑑』(小学館)。

歴史的背景が見せる風景

新宿西口の高層ビル街は、少しふしぎな構造をしている。
京王線や小田急線の地下改札を出て都庁方面に向かうと、いつの間にか地上に出ているし、新宿住友ビルの正面あたりから見渡すと、道の下にまた道がある二層構造になっていることがわかる。

新宿西口の高層ビル街の風景。この二層構造は、浄水場の跡を利用してこの街区が造られたから。そう思うと水が見える
筆者撮影
なぜこんな造りになっているのかといえば、この地にかつて浄水場があったからだ。

この地に多摩川からひいた水を浄化するための淀橋浄水場が造られたのは1898(明治31)年のこと。これが1960(昭和35)年に「新宿副都心計画」が立案されて閉鎖。その機能は東村山浄水場などに受け継がれるが、新宿の再開発はそれまでこの地にあった浄水場の凹凸を利用するかたちで行われた。あの凹んだ形や二層構造は、水を溜めていた「濾過池」を活かしているのだ。
西新宿にかつて浄水場があったことを示す石碑
筆者撮影

淀橋浄水場の遺構として唯一残るとされる新宿中央公園の六角堂。かつて浄水場で働いていた人たちもこの洋風東屋で休憩していた
筆者撮影

このことを知って新宿西口の高層ビル街を歩くと「水が見える」。もちろん心象風景として「見える」のだが、歴史的背景を知ると確実に「見える」ものがある。こういったなにかを知ることで風景が変わる楽しさは、東京のあちこちで味わうことができる。そのいくつかをご紹介したい。

眠らないためのおしゃべりと庚申塔

東京の街区を歩くと、庚申塔に出会うことがある。
庚申塔は道教の教えに由来する塔である。道教では旧暦において60日に一度巡ってくる「庚申(かのえさる)」の日の夜に眠ると、体内に潜んでいる「三尸(さんし)」という虫が天に昇り日頃の行いを神様に報告し、その内容によっては寿命が縮まるとされていた。そこで、この日は「三尸」が天に昇らないように、身を慎み夜を過ごしていたが、そのうち夜通し酒を飲みながら歓談する集いになったという。この集会を3年18回続けた記念に建てたのが庚申塔だ。

この「最初は身を慎んで過ごしていたけど、次第に歓談の場になった」という話が、とてもいい。「いいじゃんいいじゃん。夜通し起きてりゃいいのよ。飲もう飲もう」となったのだ。
そんな話を知ってから、その前を通ると「いいじゃんいいじゃん」と言いながら酒を飲んでいる人たちが見えるようになって庚申塔が好きになった。なお庚申塔は、結界の意味もあって三叉路に建てられているものが多く、これがまたとびきり美しいので、みなさんもぜひ探してみてください。

世田谷区赤堤の三叉路で見つけた庚申塔。結界の意味もあり、こういった場所に建てられることが多い
筆者撮影

東京に残る富士山愛

僕は、京都で生まれ育ち、18歳のとき大学進学を機に東京に出てきた。もう東京のほうが長く住んでいるが、根っこのところは京都にあって、東京の人はふしぎだなと思うことがいろいろある。

そのひとつが、富士山への愛だ。東京で生まれ育った私の妻など、道を歩いていると「あ! 富士山だ」と、たびたび声をあげる。銭湯に行っても壁には富士山の絵が描かれている。東京に住んでいると「銭湯=富士山」と思いがちだが、地方はちがうのだ。京都は金閣寺などの名所がタイル絵で描かれていたりして、富士山は少数派である。富士山を描く銭湯のペンキ絵は、きわめて東京らしい文化だと思う。

こういった富士山愛は、今に始まったことではない。その一端は、富士見坂という名称にも見てとれる。

富士見坂。つまり富士山が見える坂は、現在、東京都内に二十数カ所ある。その多くが江戸時代に名づけられているが、建物の林立や空気の汚れで、今でも実際に富士山が見えるところは少ない。ただ、富士見坂という名前を見かけると、昔の人はここに立ち止まり富士山を眺めていたんだなと思えて楽しい。なお、以前『見つける東京』(写真=山出高士、東京書籍、2021)という本を作ったときに、都内でもっともきれいに富士山が見える坂を探し、われわれは世田谷区の岡本3丁目にある富士見坂だと結論づけた。急勾配の坂の向こうに美しい富士山が見える。空気のきれいな冬の晴れた日に、ぜひ見てもらいたい。

世田谷区岡本3丁目にある富士見坂から望む美しい富士山
撮影=山出高士

富士見坂とともに、東京に住む人の富士山愛が見てとれるのが、富士塚だ。

古くから富士山は信仰の対象であり、登った者にご利益があるとされたが、女人禁制であったし、だれでも登れるものではない。そこで江戸の街を中心に造られたのが小さな富士山の「富士塚」である。これに登れば富士山に登ったのと同じご利益があるとされたが、街の近代化とともに多くが取り潰された。それでも現在でも東京都内に70近い富士塚が残っているとされ、実際に登れるものがいくつかある。

なかでも美しい富士塚としておすすめしたいのは、品川神社と鳩森八幡神社のものだ。
北品川にある品川神社の富士塚は、都内最大級といわれその高さは15メートルほど。頂上から見る品川の風景も雄大で、今ほどビルが林立していない時代にはさぞ遠くまで見渡せたであろうと思わせてくれる。登ったぞ!という感じがするすばらしい富士塚で、東京屈指の観光名所だと思う。

鳩森八幡神社の富士塚は、JRの千駄ケ谷駅から徒歩圏内という立地と、その開かれた雰囲気からもっとも体験しやすい富士塚のひとつだと思う。「登山口」「三号目」「山頂」といったかわいい掲示もあり、じつに親しみやすい。眺めていると、江戸時代の人たちがご利益を得ようとミニチュア富士山に登っている姿が目に浮かぶ。関東圏以外の人にとってみると、こういった塚が今でも残っていること自体が驚きではないだろうか。
鳩森八幡神社の富士塚。このような富士塚が都内にはまだいくつか残っている
筆者撮影

東の筑波山

このように江戸から西の空を見れば、いつもそこには富士山があったのだ。そして江戸の人たちは西の空だけでなく、東の空にも山を感じていた。
それが筑波山である。

「西の富士、東の筑波」とは、江戸から西の空を見れば富士山が、東の空を見れば筑波山が見えることを意味したことばだ。歌川広重の『名所江戸百景』を見ると、このことばの意味がよくわかる。というのは、このふたつの山がよく描かれているのだ。

たとえば、『深川万年橋』には、西の空に富士山が見える。

広重『名所江戸百景 深川万年橋』(魚栄、1857[安政4])
歌川広重の『名所江戸百景』から富士山が描かれたものの一枚。ちなみに亀がぶら下げられているのは「放し亀」と呼ばれるもので、これを購入して川に離すと功徳を積めると考えられていた
出典=「国立国会図書館デジタルコレクション」https://dl.ndl.go.jp/pid/1312292(参照 2024-08-19)

そして『飛鳥山北の眺望』には、東の空(ま、北ですかね)に筑波山が見える。今では、筑波山を富士山ほどに意識している人はあまりいないだろうが、じつにおもしろい形をしている。なんだかお尻のようだし、ネコの耳のようだし。このシルエットのおもしろさから、江戸の人はいつも意識していたのだろう。

ただ残念ながら、現在の東京からは、この筑波山の山影を見ることはほとんどできない。でも、東の空を見るとき、あそこにネコの耳のような筑波山があると想像できるのは、豊かなことだなと思うのだ。
広重『名所江戸百景 飛鳥山北の眺望』(魚栄、1856[安政3])
歌川広重の『名所江戸百景』から筑波山が描かれたものの一枚。山のシルエットがおもしろい
出典=「国立国会図書館デジタルコレクション」https://dl.ndl.go.jp/pid/1312253(参照 2024-08-17)

知ることで楽しみを増やす

このように、知っていると「見える」ものが、たくさんある。

逆にいえば、知らないとなにも見えない。そこにあるのはただの道であり、変哲もない風景だ。知ることで、楽しめることが増えていく。

僕は、ずっと本を作ってきたが、そのほとんどが「こんなことを知っていると楽しいよ」と伝えるものだ。

いろんなことを知ることで街歩きなど、何気ないことが楽しくなる。
そんなことを伝えたくて、僕はこれからも本を作っていく。

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