建築用 2023年11月10日

余白があることで発展する、都市の空白(今和泉隆行:空想地図作家、株式会社地理人研究所代表)

今和泉隆行(いまいずみ・たかゆき)

1985年生まれ。空想地図作家、株式会社地理人研究所代表。7歳の頃から空想地図(実在しない都市の地図)を描き続ける。地図デザイン、テレビドラマの地理監修・地図制作にも携わるほか、地図を通じて人の営みを読み解き、新たな都市の見方、伝え方づくりを実践している。著書に『みんなの空想地図』(白水社、2013)、『「地図感覚」から都市を読み解く 新しい地図の読み方』(晶文社、2019)、『空想地図帳 架空のまちが描く世界のリアル』(学芸出版社、2023)など多数。

地理人: https://www.chirijin.com
Twitter: @chi_ri_jin

空想都市から街を見つめる

私の肩書きや職業を聞かれた際には「空想地図作家」と答えているが、ほとんどの人が「なるほど」とはならない。空想地図とは実在しない都市の地図で、リアルな都市がどのように形成されるかを地図を描きながら追う趣味のひとつだが、うっかりこれが本業の柱になってしまった。

もちろん空想地図が本業のすべてではなく、そこから派生した地図、地理関連の仕事もあるのだが、20代のときに全国300都市をまわって土地勘を得たことが生きていることも多い。今回は全国のあらゆる都市を思い出すなかで、都市と都市の“接着”について考えてみたい。

中心都市の歴史

「都市」について国語辞典で調べると、「多数の人口が比較的狭い区域に集中し、その地方の政治・経済・文化の中心となっている地域」(デジタル大辞泉、小学館)とある。

都(首都)や城下町のように、政治的な意図や影響力で都市が置かれることもあれば、港町のように、地形や水運、人流の影響で都市が化して発展することもある。この前者と後者は、はっきりと二分されるものでもなく、相互作用をもたらすことが多い。為政者は地形や人流の影響を鑑みて都市を置くし、自然発生的に都市化したところが後に人口を増やし、政治、経済的に重要な都市になっていくことも多いのだ。

なお、大きな天災を除けば地形が急変することはないが、政治的、経済的な背景は短い間に変わることも多い。特に明治維新の前後では、政治体制が一変したことで政治的な中心都市が変わっていった。江戸時代の藩や令制国という政治区分は、明治以降に県に置き換わり、各地域の中心都市は城下町から県庁所在地に変わっていく。

現在の県庁所在地は元城下町が多く、現在の中心都市は旧来の中心都市を継承していることが多いのだが、ときどき例外がある。横浜市や神戸市のように、開国したことで大都市の外港として発展した港町もあれば、長野市のように、遠方から人を集める大きな寺院の門前町が県庁所在地になった例もある。しかし、江戸時代はまったく中心都市でもなかったのに、その後県庁所在地になった都市もある。

なぜ宮崎市が県庁所在地になったのか

その代表例が宮崎市だ。今や宮崎県の県庁所在地で県内最多の人口(約40万人)を抱える中心都市だが、もともとここは村だった。明治4年の廃藩置県時は現在の宮崎市中心部を流れる大淀川に県境があり、辺境の様相も垣間見えたが、さまざまな事情を経てここが県庁所在地になっていく。

隣の鹿児島県は県内全域が元鹿児島藩(薩摩藩)で、県庁所在地も自然な流れで城下町の鹿児島となったのだが、現在の宮崎県は複数の藩が散在しており、中心都市を定めるのは難しかった。なかでも宮崎県南部は元鹿児島藩(薩摩藩)で、中心都市は現在の都城市(明治6年当時、人口7,390人)だった。宮崎県北部の中心都市は現在の延岡市(明治6年当時、人口6,861人)で、中心的な2つの都市が県の南端と北端にあったのだ。その他いくつもの藩の城下町があったものの、いずれも県の中心部にはなかった。

宮崎県全体。県の北側に延岡市、南側に都城市が位置する
引用出典=国土地理院地図「地理院地図Vector」

宮崎県全体の地図を見てみると、県の中南部に広い平野があり、その平野を流れる大淀川の河口に県庁所在地があるのは自然な姿とも言える。むしろなぜ、それまでここに都市がなかったのか不思議でもある。明治35年の地図を見てみると、県庁所在地ながらまだ市にはなっておらず「宮崎町」の表記が見えるが、同町は明治22(1889)年に発足したばかりで、宮崎県発足当時の明治6(1873)年は宮崎郡上別府村だった。村に県庁があったとはなかなか想像がつかない。

現在の中心市街地を南北に貫通する橘橋は、明治期の地図にも描かれているが、宮崎県発足と同年の明治6(1873)年に初代の橘橋が架かり、それから洪水で4回流失し、その度に架け替えられている。しかも初代から3代目までは地元医師が私費を投じて架け、4代目から宮崎県が建設に当たったというのは驚きだ。

橘橋が市内南北を繋いでいただけでなく、宮崎市が県内の各地域を繋ぐ中心都市として発展し、戦前のうちに宮崎市は都城市、延岡市と互角の規模に成長し、戦後になって宮崎市の人口増加が群を抜き、今に至っている。こうした経緯を知らずに街を歩いていると、他の県庁所在地と同様、それなりの歴史がある中心都市の様相だが、県内の複数の要素を“接合、接着”するために、近代に入ってからできた新しい都市だったのだ。

宮崎市中心部の様子。左は明治期の地図。中央の橘橋によって南北が繋がれている(「今昔マップ on the web」より作成)

立川市が“くっつけた”もの

これと近い例として思い出すのが、県庁所在地ではないが東京都立川市だ。突然個人的なエピソードを交えての紹介となるが、私の母校でもある都立立川高校は、前身が旧制府立第二中学校で、東京都の23区を除く西側の内陸部、多摩地区で最初に開校した旧制中学校だった。

旧制中学校の多くは、江戸時代からの城下町や県庁所在地にあることが多いが、府立二中が開校したのは立川村だった。村内に甲州街道こそ通っていたものの宿場はなく、人々の通過点でしかなかったが、やがて鉄道が開通し、現在の中央線、青梅線が開通する。立川駅ができてからも、駅周辺はしばらくの間、一面に桑畑が広がっていたようだ。

立川市の変遷。左上1896〜1909年、右上1927〜1939年、左下1975〜1978年、右下が1998〜2005年(「今昔マップ on the web」より作成)

多摩地区は以前の郡の区分(北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡)にあわせて「三多摩」と言われる。郡のなくなった現在は死語かと思いきや、高校に入ったときに三多摩を感じたのを覚えている。

青梅線沿線が西多摩、中央線の立川以西(多摩川以南)が南多摩、中央線の立川以東が北多摩だ。私は南多摩(日野市)出身ながら、そこで初めて他の多摩民と出会うことになったのだ。南多摩は商都八王子を中心としつつも、古くから工場誘致や住宅開発が盛んで、絶えず新住民が入り続けたところだ。新旧住民の区別はあまりなく、古くからの商人も農民も、新しい工場労働者もサラリーマンも、和気あいあいと混ざっていく。和気あいあいとするあまり、よくある全体主義に落ち着き、尖った個性はノイズとなって尊重されにくくもある。

私はあまり平均的全体主義に馴染める性格ではなく、自由を求めて北多摩の立川に越境したつもりだった。しかし、そこで出会ったのは多くの西多摩民だった。西多摩民は秩序を守り、父性的な力強さを持つ。

都会っぽい自由な校風だと思って高校に入ったが、その自由な環境のなかで行事や部活、校内自治をリードしていたのは、それとは一見相反するような西多摩民の力強さだった。北多摩民は他にも選べる高校の選択肢が多かったため少数派だったが、個々で自由に生きて完結している。

接点がないとどんな人かまったくわからないが、よくよく話を聞くとおもしろい面が出てくる人が多かった。雑に形容すれば、学ランが似合い、野球部が輝く西多摩、ブレザーが似合い、吹奏楽部やサッカー部が輝く南多摩、私服が似合い、マイナーな文化部が輝く北多摩……といったところだ。これらの異なる要素が重なっていたのは、高校の特性というより、もともと三多摩のいずれの中心でもなく、三多摩の境界に近かったこの都市の特性が大きそうだ。

複数の地域と接続する“のりしろ”としての都市の発展

古くからの都市には歴史や文化があり、それに伴うアイデンティティやプライドを生むが、同時に新しいものや変化を受け入れにくい面もある。立川は逆に、守るものが何もなかったと言えよう。

戦前は飛行場ができて軍都となったが、戦後には代わりに米軍が流入した。基地が返還されると同時に、立川駅の北側には大きな空白ができた。やがてここを埋めるように、国営昭和記念公園、パブリックアートのあるオフィス街、ファーレ立川ができたほか、国の各種機関が置かれ、突如、緑とアート、研究、行政という、それまでなかった新しい要素が加わった。さらに多摩モノレールの全通によって、立川駅は多摩南北を結ぶ結節点となり、それまで吉祥寺駅が多摩地区最大の乗降客数だったが、立川駅が取って代わることとなった。近年ではアニメの舞台になったり、旧市庁舎が立川まんがぱーくになるなど、サブカルチャーの集積地の面が現れる。

都市の歴史が長くない分、都市を形成する文化や潮流に空白があり、そこが新たな文化を受容する包容力になっていると見ることもできそうだ。

人間関係もまた、都市のつながりや中心性から連想できることが多い。コミュニティの中心にいて存在感を強める人もいれば、中心的な動きは取らないものの、複数のコミュニティの端にいてじつは知人が多い、という人もいる。私は間違いなく後者で、地図、地理関連の中心的なところにいなかった分、他領域と接続することでできることを見出し、どうにか生き延びている。都市の歴史や中心性、都市間の関係から学ぶことは多いかもしれない。

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